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もりなが
ふりがな文庫
“
護良
(
もりなが
)” の例文
「もし、こよいを
出
(
い
)
でず、朝廷が
護良
(
もりなが
)
の処置を明らかに
執
(
と
)
らなんだら、六波羅中をあげて、彼は、彼独自の行動をおこさんと言ったのだな」
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
護良
(
もりなが
)
親王を迎へ奉つた楠木正成は、笠置陥落後も、関東の大軍を迎へて、奇計を以て之を悩ますこと二十日に及んだが、遂に
孤掌
(
こしやう
)
鳴りがたきを知り、城に火を放つて自殺と思はせ
二千六百年史抄
(新字旧仮名)
/
菊池寛
(著)
「ここにおわす
御方
(
おんかた
)
こそ、
今上
(
きんじょう
)
第
(
だい
)
一の
皇子
(
みこ
)
にましまし、
前
(
さき
)
の比叡山天台
座主
(
ざす
)
、ただ今はご還俗あそばされて、兵部卿大塔宮
護良
(
もりなが
)
親王様におわすぞ! ……われらはお供の木寺相模」
あさひの鎧
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
東は信州・北陸から関東・
陸奥
(
みちのく
)
にかけ、常に連絡も取れたし、それに北条氏討伐御計画の頃、
護良
(
もりなが
)
親王の令旨は全国に飛んでいるので、地方には最後まで吉野朝に味方した豪族が多くあった。
中世の文学伝統
(新字新仮名)
/
風巻景次郎
(著)
「なんと。この
護良
(
もりなが
)
へ、頭をまろめて坊主になれとの仰せというか。……そしてまた、
乱
(
らん
)
となったら、またぞろ髪を伸ばせばよいとの、お沙汰であるか?」
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
天照大神
(
あまてらすおおみかみ
)
の
御
(
おん
)
子孫、神武天皇より九十五代の
帝
(
みかど
)
、後醍醐天皇第一の
皇子
(
みこ
)
、一
品
(
ぽん
)
兵部
(
ひょうぶ
)
卿親王
護良
(
もりなが
)
、逆臣のため亡ぼされ、怨みを
泉下
(
せんか
)
に報ぜんために、只今自害するありさま見置きて
あさひの鎧
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
「よく聞け。——この
護良
(
もりなが
)
が
還俗
(
げんぞく
)
して、
仏手
(
ぶっしゅ
)
に
干戈
(
かんか
)
を取ったのは、遊戯ではないのだぞ。そのほうらにも、父の
皇
(
きみ
)
にも、いっこうわけの分らんところがある」
私本太平記:09 建武らくがき帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
後に大塔宮
護良
(
もりなが
)
親王——尊雲法親王におわしました。
あさひの鎧
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
「それこそは、さきの大塔ノ宮
護良
(
もりなが
)
親王の御遺志でもあった。いまにして宮の御先見がおもいあたる」
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
足利高氏(二十歳)新田義貞(二十四、五)楠木正成(二十八、九)北畠親房(三十二)日野資朝(二十九)日野蔵人俊基(二十六、七)
護良
(
もりなが
)
親王(十七)——また
随筆 私本太平記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
はや、それらの事情も、
疾
(
と
)
く聞こし召していらっしゃる。……そして、
護良
(
もりなが
)
はいかにせし、宗良はどうしてと、さすが御父情、お案じあらせられていた折だ。この兄もおる。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「かねての、
諜
(
ちょう
)
じ合せをふくみ、
護良
(
もりなが
)
(大塔ノ宮)と
宗良
(
むねなが
)
のふたりも、一山の衆徒をひきい、白川口、大津あたりまで出て、待ち迎えんと、書中に見らるる。——藤房、
忠顕
(
ただあき
)
」
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
それが
女々
(
めめ
)
しいと申すものよ。さまで父恋しくば、おもとは御父ぎみの膝を慕うて、奈良へ落ちてゆくがいい。——この
護良
(
もりなが
)
は、一時いずこへなと身を潜めて、再挙を計ろう。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
護
常用漢字
小5
部首:⾔
20画
良
常用漢字
小4
部首:⾉
7画
“護良”で始まる語句
護良親王
護良親王様