護良もりなが)” の例文
「もし、こよいをでず、朝廷が護良もりながの処置を明らかにらなんだら、六波羅中をあげて、彼は、彼独自の行動をおこさんと言ったのだな」
護良もりなが親王を迎へ奉つた楠木正成は、笠置陥落後も、関東の大軍を迎へて、奇計を以て之を悩ますこと二十日に及んだが、遂に孤掌こしやう鳴りがたきを知り、城に火を放つて自殺と思はせ
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
「ここにおわす御方おんかたこそ、今上きんじょうだい一の皇子みこにましまし、さきの比叡山天台座主ざす、ただ今はご還俗あそばされて、兵部卿大塔宮護良もりなが親王様におわすぞ! ……われらはお供の木寺相模」
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
東は信州・北陸から関東・陸奥みちのくにかけ、常に連絡も取れたし、それに北条氏討伐御計画の頃、護良もりなが親王の令旨は全国に飛んでいるので、地方には最後まで吉野朝に味方した豪族が多くあった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
「なんと。この護良もりながへ、頭をまろめて坊主になれとの仰せというか。……そしてまた、らんとなったら、またぞろ髪を伸ばせばよいとの、お沙汰であるか?」
天照大神あまてらすおおみかみおん子孫、神武天皇より九十五代のみかど、後醍醐天皇第一の皇子みこ、一ぽん兵部ひょうぶ卿親王護良もりなが、逆臣のため亡ぼされ、怨みを泉下せんかに報ぜんために、只今自害するありさま見置きて
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「よく聞け。——この護良もりなが還俗げんぞくして、仏手ぶっしゅ干戈かんかを取ったのは、遊戯ではないのだぞ。そのほうらにも、父のきみにも、いっこうわけの分らんところがある」
後に大塔宮護良もりなが親王——尊雲法親王におわしました。
あさひの鎧 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
「それこそは、さきの大塔ノ宮護良もりなが親王の御遺志でもあった。いまにして宮の御先見がおもいあたる」
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
足利高氏(二十歳)新田義貞(二十四、五)楠木正成(二十八、九)北畠親房(三十二)日野資朝(二十九)日野蔵人俊基(二十六、七)護良もりなが親王(十七)——また
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はや、それらの事情も、く聞こし召していらっしゃる。……そして、護良もりながはいかにせし、宗良はどうしてと、さすが御父情、お案じあらせられていた折だ。この兄もおる。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「かねての、ちょうじ合せをふくみ、護良もりなが(大塔ノ宮)と宗良むねながのふたりも、一山の衆徒をひきい、白川口、大津あたりまで出て、待ち迎えんと、書中に見らるる。——藤房、忠顕ただあき
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それが女々めめしいと申すものよ。さまで父恋しくば、おもとは御父ぎみの膝を慕うて、奈良へ落ちてゆくがいい。——この護良もりながは、一時いずこへなと身を潜めて、再挙を計ろう。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)