筒井順慶つついじゅんけい)” の例文
滝川一益かずます、丹羽長秀、明智光秀——そして筒井順慶つついじゅんけいなどの援軍およそ二万が、京都を発して播州へ着いたのは、もう五月の初めだった。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
久野は丹後の国において幽斎公に召し出され、田辺御籠城ごろうじょうの時功ありて、新知しんち百五十石たまわり候者に候。矢野又三郎介錯いたし候。宝泉院は陣貝吹じんがいふき山伏やまぶしにて、筒井順慶つついじゅんけいの弟石井備後守吉村いしいびんごのかみよしむらが子にそろ
興津弥五右衛門の遺書 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
今日こんにち入船にゅうせんは大和の筒井順慶つついじゅんけい和泉いずみ中村孫兵次なかむらまごへいじ茨木いばらき中川藤兵衛なかがわとうべえ、そのほか姫路ひめじからも外濠そとぼりの大石が入港はいってまいりますはずで
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
泉州さぎノ森の本願寺一門、伊賀上野の筒井順慶つついじゅんけい、山陰の細川藤孝ほそかわふじたか、その子忠興ただおきなどの親族から、近畿きんきのこれと思う有力者には、ことごと飛檄ひげきした。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
浅野長吉ながよし、杉原家次いえつぐ、黒田官兵衛、細川忠興ただおき、高山右近長房ながふさ蒲生氏郷がもううじさと筒井順慶つついじゅんけい、羽柴秀長、堀尾茂助吉晴ほりおもすけよしはる、蜂須賀小六家政いえまさ、稲葉入道一鉄いってつ——など。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「洞ヶ嶺にある筒井順慶つついじゅんけいを訪ねて参った光秀は、きのうお味方がこの尼ヶ崎に着いたと聞き知ると、にわかに下鳥羽しもとば退いたということでござります」
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この草内くさちに留まって一休みしたのは、夜来の疲れもあったが、かたがた、筒井順慶つついじゅんけいの向背が気懸きがかりだったことにもよる。筒井家と明智家とは姻戚の関係がある。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
郡山こおりやま筒井順慶つついじゅんけいは、なお奈良にとどまっておるか、奈良を出た様子か」
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
いちばん多いのは、筒井順慶つついじゅんけいをきめている日より見組であった。
梅里先生行状記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)