毘沙門堂びしゃもんどう)” の例文
なぜなれば、信貴山毘沙門堂びしゃもんどうの陣所では、いぜん武士をつのり、軍の装備も解かず、戦気烈々であると一般にいわれているからだった。
毘沙門堂びしゃもんどうの法印明禅は、参議成頼卿の子息で、顕密の棟梁山門の英傑とうたわれた人であるが、道心うちに催し隠遁のおもいが深かった。
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
東曲輪の大きさは、二十四間に六十間で、三つのうちで最も小さく、中曲輪は信玄の居所、築山泉水毘沙門堂びしゃもんどうなど多少風致を備えていた。西曲輪は姫嬪きひん住坊すまい、人質曲輪とも呼ばれていた。
神州纐纈城 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
第二の高時、第三の高時、総じて、不逞なる仮面の敵を、誅罰ちゅうばつしきらぬうちは、この信貴山しぎさん毘沙門堂びしゃもんどうの軍はめったに解くわけにはゆかぬ
ここは城中の毘沙門堂びしゃもんどうとよぶ一閣である。堂作りの建物であるが、信玄の居室、書院、評議の間、使者の間などことごとく備わっている。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
勝頼も、その日は、兵馬の事を廃して、毘沙門堂びしゃもんどうのうちにつつしみ、眼に新緑を見ず、耳に老鶯ろうおうを聞かないこと三日にわたっていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
当然、率先して、父君のこの還幸をお迎えに出ていなければならないはずの大塔ノ宮が、信貴山しぎさん毘沙門堂びしゃもんどうから降りても来ないことだった。
躑躅つつじさき城館しろたちのうちに一宇いちう伽藍がらんがある。毘沙門堂びしゃもんどうといって、信玄入道の禅室でもあり、政務所でもあり、時には軍議の場所ともなった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
毘沙門堂びしゃもんどうへ行く中門まで表の武士が附いて来る。そこから奥の武士へ引き継がれて、彼は、信玄の身近へ歩いて行った。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
毘沙門堂びしゃもんどうの下まで彼は曳きずられて行った。泣きもしないので法師たちの気はよけい折檻せっかんに駆られた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人間が最も敏に知る血臭ちくさいものが、墨のように、何処とはなくサッと流れた。毘沙門堂びしゃもんどうからすぐ上の峰道には、一つの柵がある。麓の沙汰人が、交代で山番に来ていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
こうして、正成が、いちど千早へ引きあげて行くまでには、信貴山しぎさん毘沙門堂びしゃもんどうにある大塔ノ宮へも、洛中の千種忠顕ちぐさただあきへも、使いをたてて、つぶさにここの戦捷せんしょうを報告していた。
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
人は去って、人気ひとけない毘沙門堂びしゃもんどうは、風に光る金壁と、しずかなせみこえだけになった。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
城園じょうえんの奥に、毘沙門堂びしゃもんどうがあった。ふたりは、月もる濡れ縁に腰かけて、天下の人物を論じ、時雲じうんを語りあい、また若い生命をこのときにうけた身を祝福しあって、夜のくるのもわすれていた。
新書太閤記:11 第十一分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
『いずれ又会おう。急用のできた場合は、毘沙門堂びしゃもんどうの例の額堂がくどう、あそこの北の柱へ、釘で目印をつけておく。書物かきものは、その額堂の絵馬えまのどれかの裏へ隠しておくから、時々、柱の目印を見に来てくれ』
新編忠臣蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
毘沙門堂びしゃもんどうの本堂に、俗の男がぽつねんと坐らせられていた。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)