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寶永
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はうえい
未だ
存命なるやまた
何方へか參りしやと
尋けるに甚左衞門
仰の通り
慥に
寶永二酉年三月頃と
覺え候が右お三
儀は其
娘澤の井と申者
相果候より
狂氣なし平澤村を
杖に越前守殿の前に
駈來り立乍ら
大音上天一坊は
贋者にて
山伏感應院の
弟子寶澤と
云者なり若君には
寶永二酉年三月十五日
御早世に相違なし
委細は是に候とて
書留の
控へ差出し兩人は
撥と
平伏なし私共天一坊
贋者の儀を
右の通り
御轉任にて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり
寶永四年
紀州家御相續より
十月目にて將軍に任じ給ふ
御運目出度君にぞありける
是に
依て江戸町々は申すに
及ず東は
津輕外が
濱西は
鎭西薩摩潟まで
皆萬歳を