藤孝ふじたか)” の例文
勝龍寺城の頃は、わずか二万石ほどの小大名であったのが、今ではしゅうとの細川藤孝ふじたかは、丹後の田辺城にいて、あの地方における重鎮であった。
摂津せっつの中之島の城にいる細川藤孝ふじたかから「火急」として飛状が来た。——同時に、京都にある明智光秀からも
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細川藤孝ふじたかとともに、義昭が落魄らくはくしていた頃から側を離れずにいた功臣であった。藤孝が、諫言かんげんいれられず、身をかくして後も、大和守はつねに左右に仕えていた。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
丹波には、波多野秀治はたのひではるの一族が、やはり今を「潮時しおどき」として、しきりに騒ぎ出していた。この方面へは、明智光秀と細川藤孝ふじたかが、その治領にも接している関係から
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
藤堂高虎とうどうたかとら、細川藤孝ふじたかの援軍などが、一丸になって、河中の船団をつつみ、小舟から投げしば投げ松明たいまつなどで、彼の主船を焼き沈め、乗員三百余人の毛利兵を殲滅せんめつしてしまった上
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細川藤孝ふじたかを副将として、丹波、丹後の敵性を、一城一城、攻めおとして行ったのである。
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
月の末近くには、神戸かんべ信孝、北畠信雄の一門もそろい、以下、柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽にわ長秀、細川藤孝ふじたか、池田信輝、筒井順慶、蒲生氏郷がもううじさと蜂屋頼隆はちやよりたかなど、あらかた到着していた。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細川藤孝ふじたかは、丹後の一しき義直よしなおを亡ぼして、その田辺の城を、信長に献じ、信長から
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
戦国の焦土しょうどから、徳川覇府の建設へと、政治的な幾変転が繰り返される間にも、文化の炬火きょかは、煌々こうこうと絶ゆることなく燃やし続けられたが、その文化けんの最も輝かしい光芒は、幽斎細川藤孝ふじたか
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北のとりでには、三好党がり、南の小城には、細川藤孝ふじたかが拠っていた。
新書太閤記:04 第四分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
泰勝寺の山号はいうまでもなく、細川家の中祖細川藤孝ふじたか(幽斎)の泰勝院徹宗玄旨たいしょういんてっそうげんじの法名から取ったものであるが、その細川幽斎と妙心寺禅林とのあいだがらは、ずいぶん密接なものだったらしい。
随筆 宮本武蔵 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
西曲輪は、良人の父、幽斎ゆうさい細川藤孝ふじたかの住居とされている所である。
おそらく、初陣ういじんであったろう。共に細川藤孝ふじたかの子である。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
父の細川藤孝ふじたかは、武人とはいえ、温順な人であった。
細川藤孝ふじたかには、桑田、船田の二郡が、与えられた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
細川与一郎、ことし七歳、細川藤孝ふじたかが子である。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
客は、細川藤孝ふじたかだった。
新書太閤記:03 第三分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)