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聖武
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しょうむ
ふりがな文庫
“
聖武
(
しょうむ
)” の例文
この
香木
(
こうぼく
)
は
聖武
(
しょうむ
)
天皇の御代、中国から渡来したもので、
正倉院
(
しょうそういん
)
に
封
(
ふう
)
じられて、
勅許
(
ちょっきょ
)
がなければ、観ることすらゆるされないものだった。
新書太閤記:05 第五分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
天平
(
てんぴょう
)
十五年
聖武
(
しょうむ
)
天皇親しく鋳造の
詔
(
みことのり
)
を発し、天平勝宝四年
開眼供養
(
かいげんくよう
)
の盛儀が行われてより、現在にいたるまでおよそ千二百年になるが
大和古寺風物誌
(新字新仮名)
/
亀井勝一郎
(著)
天皇御製とあるが、
聖武
(
しょうむ
)
天皇御製だろうと云われている。「秋の田の穂田を」までは序詞で、「刈り」と「雁」とに掛けている。
万葉秀歌
(新字新仮名)
/
斎藤茂吉
(著)
後に
聖武
(
しょうむ
)
天皇が自ら
三宝
(
さんぼう
)
の
奴
(
やっこ
)
と宣言せられたような、主権者の権威を永遠の真理によって基礎づけるところの決然たる言葉はここには用いられていないが
日本精神史研究
(新字新仮名)
/
和辻哲郎
(著)
黄金産出のことを記録してある最も古いものは『
続
(
しょく
)
日本紀』であろうと思いますが、それによりますと、
聖武
(
しょうむ
)
天皇の
天平
(
てんぴょう
)
二十一年の二月、
百済
(
くだら
)
の王敬福という者が、今の
文学に現れたる東北地方の地方色:(仙台放送局放送原稿)
(新字新仮名)
/
佐左木俊郎
(著)
▼ もっと見る
日本はシナ文化の
先蹤
(
せんしょう
)
を追うて来たのであるから、この茶の三時期をことごとく知っている。早くも七二九年
聖武
(
しょうむ
)
天皇
奈良
(
なら
)
の御殿において百僧に茶を賜うと書物に見えている。
茶の本:04 茶の本
(新字新仮名)
/
岡倉天心
、
岡倉覚三
(著)
東大寺の大仏
開眼
(
かいげん
)
の日からかぞえると七年目、
天平
(
てんぴょう
)
もすでに末期の宝字三年、
鑑真
(
がんじん
)
が
聖武
(
しょうむ
)
天皇の御
冥福
(
めいふく
)
を祈りつつ草創した寺と伝えられる。
大和古寺風物誌
(新字新仮名)
/
亀井勝一郎
(著)
すぐる三日間にわたる天皇の南都行幸は、
聖武
(
しょうむ
)
の
帝
(
みかど
)
の
御願
(
ぎょがん
)
いらいな車駕の盛事といわれ、奈良の
霞
(
かすみ
)
も、
埃
(
ほこり
)
に黄ばんだ程だった。
私本太平記:02 婆娑羅帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
此の歌などは、万葉としては後期に属するのだが、
聖武
(
しょうむ
)
の
盛世
(
せいせい
)
にあって、歌人等も
競
(
きそ
)
い
勉
(
つと
)
めたために、人麿調の復活ともなり、かかる歌も作らるるに至った。
万葉秀歌
(新字新仮名)
/
斎藤茂吉
(著)
聖武
(
しょうむ
)
天皇、
神亀
(
じんき
)
元年冬十月紀伊国に行幸せられた時、従駕の山部赤人の歌った長歌の反歌である。「沖つ島」は沖にある島の意で、此処は
玉津島
(
たまつしま
)
のことである。
万葉秀歌
(新字新仮名)
/
斎藤茂吉
(著)
周知のごとく、東大寺を襲った幾たびかの災禍を免れて、いまになお
天平
(
てんぴょう
)
の姿をとどめる
唯一
(
ゆいいつ
)
の御堂である。天平五年
聖武
(
しょうむ
)
天皇が
良弁
(
ろうべん
)
僧正に勅して
建立
(
こんりゅう
)
せしめ給うところと伝えらるる。
大和古寺風物誌
(新字新仮名)
/
亀井勝一郎
(著)
聖
常用漢字
小6
部首:⽿
13画
武
常用漢字
小5
部首:⽌
8画
“聖武”で始まる語句
聖武天皇
聖武天皇頃