範頼のりより)” の例文
範頼のりよりの墓があるといふ小山や公園や梅園や、そんな所へ行つてそこの日だまりにしやがんでぼんやり時を過して帰つてくるのだ。
赤蛙 (新字旧仮名) / 島木健作(著)
朝飯をすました後、例の範頼のりよりの墓に参詣した。墓は宿から西北へ五、六丁、小山というところにある。
綺堂むかし語り (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
範頼のりより墓守はかもりの作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほどのちの事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。
思い出す事など (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
範頼のりよりはかってみても、範頼は煮えきらないたちだし、何よりは、政治的な機微きびがわからない。
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
平家の追討にも、義経よしつね範頼のりよりの二弟をしてその事に当らしめ、自分は鎌倉を離れなかつた。武士が領国を離れ京洛の地に入ることは、その本拠を失ふことであることを心得てゐたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
曼公が周防国すおうのくに岩国いわくにに足を留めていた時、池田嵩山すうざんというものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川きっかわ家の医官で、名を正直せいちょくという。先祖せんそ蒲冠者かばのかんじゃ範頼のりよりから出て、世々よよ出雲いずもにおり、生田いくた氏を称した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
源九郎冠者義経、かばの冠者範頼のりよりの二人は、これらの首を東洞院ひがしのとういんの大路を北へ見せあるいた上で、獄門にかけたいということを後白河法皇に伺いをたてた。これには法皇もお困りになったらしい。
前々回の「大江山待ち」の項で、範頼のりより、義経たちの源氏方は、すでに生田いくたと鵯越えの直前まで迫っている。——で定石じょうせきだと、次回はすぐ鵯越え、一の谷の合戦描写になるわけである。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
範頼のりより義経よしつねに六万余騎を率いさせて上ったが、すでに京に戦闘が起り、御所、内裏みな焼き払われ、天下は暗闇となったということが伝わったので、すぐに今、都へのぼっても軍のしようもあるまい
そしてここでは、源氏の三河守範頼のりより蒲冠者かばのかじゃ)の深入りを捉えて、去年以来、平家方が圧勝していた。サシこめばサシこむほど、遠征の源氏勢は、自律を失い、コマを取られ、総敗北のほかなかった。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
範頼のりよりは、いちど鎌倉へ帰っていたが、頼朝の命で八月鎌倉を立ち
源頼朝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)