庚午かのえうま)” の例文
十二月庚午かのえうまついたち、皇太子片岡に遊行いでます。時に飢ゑたるひと道のほとりせり。りて姓名かばねなを問ひたまふ。而してまをさず。皇太子飲食をしものを与へたまふ。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
上に言うた通りわが邦でタツというはもと竜巻を指した名らしく外国思想入りて後こそ『書紀』二十六、斉明さいめい天皇元年〈五月さつき庚午かのえうまついたちのひ空中おおぞらのなかにして竜に乗れる者あり、かたち唐人もろこしびとに似たり
これはそもそもどういう意味かというと、日本の公民の戸籍は初め大化の時に調べまして、その戸籍の基本となるべきものは、天智天皇御代の庚午かのえうまの歳の調査のもの、これを庚午年籍こうごねんじゃくと云います。
明治三年庚午かのえうま一一月二七夜、中津留主居町るすいまちの旧宅敗窓の下に記す
中津留別の書 (新字新仮名) / 福沢諭吉(著)
十月庚午かのえうまの日。とらこく
三国志:10 出師の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
庚午かのえうま、皇子大津を訳語田をさだいへ賜死みまからしむ。時に年廿四。妃皇女山辺みめひめみこやまべみくしくだ徒跣すあしにして、奔赴はしりゆきてともにしぬ。見るひと歔欷なげく。皇子大津は天渟中原瀛真人あまのぬなかはらおきのまひと天皇(天武天皇)の第三みこなり。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
明治三年庚午かのえうま三月慶応義塾同社 しるす