皆さんは、岩瀬肥後いわせひご小栗上野介おぐりこうずけのすけの名を覚えておいていただきたい。ここにお話ししようとする栗本くりもと先生も、そういう三人の中の一人です。
力餅 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
勘定奉行かんじょうぶぎょう(今の大蔵大臣)の小栗上野介おぐりこうずけのすけが、旗本から租税を取りたてて、その資金をもって、庶民のなかから多くの軍兵を募ったものである。
その計画は、小栗上野介おぐりこうずけのすけと武田斐三郎との両人の企てで、沢太郎左衛門がそれに参加したのは、やや後のことになります。
幕府の勘定奉行小栗上野介おぐりこうずけのすけの発案で慶応三年夏以来、神戸開港を機として大阪の半官半民の金融および貿易機関たる「商社会所」から発行されたものである。
Moods cashey (新字新仮名) / 服部之総(著)
旧幕の折には駿河台胸突坂むねつきざかに居まして、二千五百石頂戴致した小栗上野介おぐりこうずけのすけと云う人の妾の子でござりまする。
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
江戸では、小栗上野介おぐりこうずけのすけが、軍用金の調達に奔走したが、フランスから借入れる外、方法がつかなかった、そして二人の貰った軍用金とて、少額なものであった。
近藤勇と科学 (新字新仮名) / 直木三十五(著)
当時とうじ幕府の進歩派小栗上野介おぐりこうずけのすけはいのごときは仏蘭西フランスに結びその力をりて以て幕府統一のまつりごとをなさんとほっし、薩長さっちょうは英国にりてこれにこうたがい掎角きかくいきおいをなせり。
後日ごじつにおいて小栗上野介おぐりこうずけのすけの如きもまたその一なりとわざるを得ず。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
小栗上野介おぐりこうずけのすけを監察として、第一回の遣米使節を派遣した時、コンゲルス(議事堂)を見た「村垣日記」のうちに
大菩薩峠:30 畜生谷の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
小栗上野介おぐりこうずけのすけ全盛ぜんせいの当時、常に政府にちかづきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗本鋤雲くりもとじょうん等ともしたしく交際こうさいし政府のために種々のさくを建てたる中にも
小栗上野介おぐりこうずけのすけが、それを率先して主張したことは、識者のあいだには、早くから知られている。
単に西郷とはいわず、いわゆる、維新の勢力の全部を向うに廻して立つ役者が、小栗上野介おぐりこうずけのすけでありました。
大菩薩峠:28 Oceanの巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
当時とうじにおける外交の事情じじょうを述べんとするに当り、小栗上野介おぐりこうずけのすけの人とりよりかんに、小栗は家康公いえやすこう以来有名ゆうめいなる家柄いえがらに生れ旗下きか中の鏘々そうそうたる武士にして幕末の事
幕府の人小栗上野介おぐりこうずけのすけは、そのまえから、日本を郡県制の国にしなければならぬと、公言していた。日本は、その時代から世界とともに、民主国となるべき方向にすすんでいたのであった。