一層ひとしお)” の例文
表通を歩いて絶えず感ずるこの不快と嫌悪の情とは一層ひとしお私をしてその陰にかくれた路地の光景に興味を持たせる最大の理由になるのである。
扱帯しごき一層ひとしおしゃらどけして、つまもいとどしく崩れるのを、ものうげに持て扱いつつ、せわしく肩で呼吸いきをしたが
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
そも一秒時ごとに、汝と遠ざかりまさるなりなど、われながら日頃の雄々おおしき心はせて、児を産みてよりは、世の常の婦人よりも一層ひとしお女々めめしうなりしぞかし。
妾の半生涯 (新字新仮名) / 福田英子(著)
そんな古い記憶をび起こすにつけても、久しく会わなかった姉の老けた様子が一層ひとしお健三の眼についた。
道草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
おそらくその女も他の男に見いだされて余所に引きとられてしまったのだろうとあきらめると、その女恋しさを一層ひとしお切に感じ出しながら、その儘では何か立ち去りがたいように
曠野 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
眼の下に見下すこの貧民窟のブリキ屋根は一層ひとしお汚らしくこうした人間の生活には草や木が天然から受ける恵みにさえあずかれないのかとそぞろ悲惨の色を増すのである。
いうことの極めて確かに、心狂える様子もないだけ、廉平は一層ひとしお慰めかねる。
悪獣篇 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
今日は一層ひとしお静かである。主人も、娘も、下女も下男も、知らぬに、われを残して、立ち退いたかと思われる。立ち退いたとすればただの所へ立ち退きはせぬ。かすみの国か、雲の国かであろう。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
臥床ねどこの中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒をおおしいの茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層ひとしお色濃く照している。
濹東綺譚 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
骨が細く、からだが細く、顔はことさら細く出来上ったうえに、取る年は争われぬ雨と風と苦労とを吹きつけて、からい浮世に、辛くも取り留めた心さえ細くなるばかりである。今日は一層ひとしお顔色が悪い。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)