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おんきやう
父君は、家の内に道場を構へて居たが、簾越しにも聴
聞は許されなかつた。
御経の
文は手写しても、固より意趣は訣らなかつた。
されば
馬太の
御経にも
記いた如く「心の貧しいものは仕合せぢや。
一定天国はその人のものとならうずる。」
油火のかすかな光の下で、
御経を
読誦し奉つて居つたが、
忽ちえならぬ香風が吹き渡つて、雪にも
紛はうず桜の花が紛々と
飜り
出いたと思へば、いづくよりともなく一人の
傾城が
「ごへんは
御経の文句を心得られたか。」
この風やこの雨には一種特別の
底深い力が含まれて
居て、寺の
樹木や、
河岸の
葦の葉や、
場末につゞく貧しい家の
板屋根に、春や夏には決して聞かれない
音響を伝へる。