那覇なは)” の例文
那覇なはの市街の片端を三カ所まで区画して、彼らを集め住ましめたのは近世のことで、それも政策の強制するところであったらしい。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
那覇なは郊外の村であったが、今は町となり市の一部に編入された。瓦焼かわらやきは別だが、沖縄では今も壺屋町だけが焼物を作る窯場として現存している。
現在の日本民窯 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
根葉ねはからちけば、昨年こぞ今年ことしなてや、首里しゆりをさめならぬ、那覇なはをさめならぬ、御百姓おひやくしやうのまじりかつじにおよで、御願おねげてる御願おねげたかべてるたかべ、肝揃きもそろてゝ、肝揃きもそろげは
ユタの歴史的研究 (新字新仮名) / 伊波普猷(著)
店の客も公園の小屋の関係のものが多かった。そこは、生粋きっすいの琉球の泡盛を売っていて、出港税納付済——那覇なは税務所という紙のついたびんが、いくつも入口に転がっていた。
如何なる星の下に (新字新仮名) / 高見順(著)
那覇なはを根拠地にして小笠原へ行き、父島に貯炭所にあてる土地まで買って日本が開国しない場合は父島をあるいは沖繩を仲つぎにして上海シャンハイ貿易をやろうと考えていたのである。
黒船来航 (新字新仮名) / 服部之総(著)
琉球那覇なはは古い港であって室町時代には南蛮との貿易の仲介地であった。したがって渡来した南土の更紗さらさがこの紅型の起原であるとも云われる。
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
那覇なはの波の上という丘陵の高みでは、毎年日を定めてこの附近の居留者が、おのおのその故郷の方角に向けて香炉こうろを置き、それぞれの本国に向かって遥拝の式
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
それに那覇なはの港から遠くない首里しゅりの都は王城のあった所で、歴史は古く人文の跡が豊かに残されているのです。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
よほど有名な古い話だったと見えて、那覇なはの港に接した若狭町わかさまちの、若狭殿というのがその家であった。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
那覇なは壺屋つぼやという町があって、そこに多くの窯があって仕事をします。「南蛮なんばん」といって上釉うわぐすりのないものと、「上焼じょうやき」と呼んで釉薬くすりをかけたものと二種類に分れます。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
那覇なはの周囲その他のある村々では、これをマーウーファーという者もあり、それを真大葉の意味だと説明してくれた学者もあるが、この二つの語はもと一つらしいから
尚王しょうおうが城を構えたのは首里しゅりで、その近くの那覇なはは国の港でありました。外とのが不便でありましたから、凡てのものをこの国で作らねばならなかったでありましょう。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
日本では首里しゅり那覇なはを中心点と見ることに決めてしまったので、東海岸の文化や言葉は後になって変化したのだと考えている。けれども私は最初からの違いが証明できると思う。
海上の道 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
歯が下に張っているもので、この様式を守る下駄は、今は薩摩の川内下駄せんだいげたと琉球那覇なはのものと、この衣川のものとだけになりました。中でも衣川のものが形の立派さでは第一であります。
手仕事の日本 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
例えば那覇なはには二つの劇場がありましたが、ともかく沖縄固有の踊やら芝居やら音楽やらを、年中毎日上演しているのです。そんな場面は日本のどの県のどの市や町に行っても見られません。
沖縄の思い出 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)