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蝦夷地
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えぞち
ふりがな文庫
“
蝦夷地
(
えぞち
)” の例文
今の人民の世界にいて事を
企
(
くわだ
)
つるは、なお、
蝦夷地
(
えぞち
)
に行きて開拓するが如し。事の足らざるは
患
(
うれい
)
に非ず、力足らざるを
患
(
うれ
)
うべきなり。
学者安心論
(新字新仮名)
/
福沢諭吉
(著)
政府の方針が開拓に向けられてるのであるならば、まだ
殆
(
ほと
)
んど手をつけていない
濶
(
ひろ
)
いこの
蝦夷地
(
えぞち
)
に、彼らの
棲
(
す
)
む
恰好
(
かっこう
)
の土地が無いはずはなかった。
石狩川
(新字新仮名)
/
本庄陸男
(著)
陸羽の奥はまだ
蝦夷地
(
えぞち
)
のままといってよい。
乱妨
(
らんぼう
)
、反乱、同族の闘いなど、絶えまもない。——
顕家
(
あきいえ
)
は二年の在任ですっかり戦陣の起居に馴れた。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
寧親は文化元年五月連年
蝦夷地
(
えぞち
)
の防備に任じたという
廉
(
かど
)
を以て、四万八千石から一躍して七万石にせられた。いわゆる津軽家の
御乗出
(
おんのりだし
)
がこれである。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
鷲
(
わし
)
の国ロシアのカザリン女帝、不世出の英資をもって、
版図
(
はんと
)
を拡め日本の地をさえうかがわんとして虎視眈々、
蝦夷地
(
えぞち
)
に向かって手を延ばさんとす。
血煙天明陣
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
▼ もっと見る
天保九年長崎に
抵
(
いた
)
り遂に僧となり平戸の某寺に住したが、弘化元年に至り還俗して
蝦夷地
(
えぞち
)
探険の途に上った。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
それから後にどこかからひぐまが
蝦夷地
(
えぞち
)
に入り込んで来たのではないかと想像される。
日本人の自然観
(新字新仮名)
/
寺田寅彦
(著)
義経は
蝦夷地
(
えぞち
)
へ渡って行く以前に、一度この村を通って、ここに来て休憩したことがあるのだそうです、そうして静かな
見沼
(
みぬま
)
の風景を眺めながら昼の食事をしたというのであります。
日本の伝説
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
当時の函館あたりはまだ「
蝦夷地
(
えぞち
)
」と言いまして、開けたばかりのさみしいところでしたが、先生は六年もそのさみしいところにしんぼうして、病院や医学所を建てたり、薬草園を開いたり
力餅
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
当の公綱の思わくにすれば、遠い
蝦夷地
(
えぞち
)
ノ乱などで、連年いくら功をあげても、中央では知る者もないが、ここで楠木討伐に
剋
(
か
)
てば、一躍、わが武名は全国に鳴りひびく。
私本太平記:05 世の辻の帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
近世の
蝦夷地
(
えぞち
)
に、いわゆるフレシャム(赤人)の
警
(
いましめ
)
を伝えた時、多くの東北人にはそれが意外とも響かなかったのは、古来の
悪路王
(
あくろおう
)
や
大竹丸
(
おおたけまる
)
の同類に、赤頭太郎などと称して赤い
大人
(
おおひと
)
が
山の人生
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
いよいよ廃藩が断行され、旧諸藩はいずれも士族の救済に心を砕き、これまで
蝦夷地
(
えぞち
)
ととなえられて来た北海道への開拓方諸有志の大移住が開始されたのも、これまた過ぐる三年の間のことである。
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
それよりもその風が強く吹きつづけると、やがて転じて別れの風になるのが気づかいなというので、是は多分
蝦夷地
(
えぞち
)
での流行唄であろう。北陸方面では、ダシというのがヤマセに近い風であった。
海上の道
(新字新仮名)
/
柳田国男
(著)
“蝦夷地”の解説
近世における蝦夷地(えぞち)とは、松前藩の城下町松前を中心とする和人地を除く北海道本島、およびサハリン島(樺太島)や千島列島を含む周辺の島々を合わせた地域の総称である。大部分はアイヌの居住地であったが、他所から移り住む和人も存在した。またサハリン島では樺太アイヌ以外にウィルタやニヴフも居住していた。1869年に北海道の名称が定められると用いられなくなった。
(出典:Wikipedia)
蝦
漢検準1級
部首:⾍
15画
夷
漢検準1級
部首:⼤
6画
地
常用漢字
小2
部首:⼟
6画
“蝦夷”で始まる語句
蝦夷
蝦夷松
蝦夷菊
蝦夷錦
蝦夷島
蝦夷人
蝦夷菫
蝦夷虫
蝦夷松前
蝦夷床