うるほ)” の例文
夫れ逍遙子が一味の雨は、もろ/\の草木をうるほすに足りなむ。然れども類想と個想との別はおそらくは梅と櫻との別にことなるべし。
柵草紙の山房論文 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
熊野川の谷を遡る時も、瀞八町の渓に船を泛べる時も、玉置山たまきやま大塔おほたふの宮の遺跡を偲ぶ時も、柔かなこまかい雨が常に私の旅の衣をうるほして居た。
春雨にぬれた旅 (新字旧仮名) / 田山花袋田山録弥(著)
瀧口、『いうに哀れなる御述懷、覺えず法衣をうるほし申しぬ。るにても如何なれば都へは行き給はで、此山には上り給ひし』。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
その時でさへ、飲めるのは僅にのどうるほすに足る程の少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいと云ふ事が、久しい前から、彼の唯一の欲望になつてゐた。
芋粥 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
漸くにして、ベルナルドオとアヌンチヤタとの上に想ひ及ぶとき、われはの邊のうるほふを覺えき。涙にやありし、又窓の下なる石垣にあたりし波の碎け散りて面にそゝぎたるにやありし。
堪らない冷汗ばかりにうるほはされるだけだつた。
山を越えて (新字旧仮名) / 牧野信一(著)
満枝は始て涙にうるほへる目を挙げたり。
金色夜叉 (新字旧仮名) / 尾崎紅葉(著)
日頃から老実な彼が、つつましく伏眼になつて、何やらかすかに口の中でしながら、静に師匠の唇をうるほしてゐる姿は、恐らく誰の見た眼にもおごそかだつたのに相違ない。
枯野抄 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)
たもとに寒き愛宕下おたぎおろしに秋の哀れは一入ひとしほ深く、まだ露りぬ野面のもせに、我が袖のみぞ早やうるほひける。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
さうして見れば、時代が既に推移した今、恩讎おんしうふたつながら滅した今になつて、枯骨ここつ朝恩てうおんうるほつたとて、何の不可なることがあらうぞ。私はかう思つて同郷の先輩にはかり、当路の大官にうつたへた。
津下四郎左衛門 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
続いて乙州、正秀、之道、木節と、病床を囲んでゐた門人たちは、順々に師匠の唇をうるほした。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息毎に細くなつて、数さへ次第に減じて行く。喉も、もう今では動かない。
枯野抄 (新字旧仮名) / 芥川竜之介(著)