正覚しょうがく)” の例文
記されてある如く既にその正覚しょうがくを取ったというからには、右の事実はもはや動かすことが出来ぬ。至極のさがには相対する質がない。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
なかなかに耳にもつぱらなるこそ正覚しょうがくのたよりなるべけれ、いざいざと筆をはしらしわずかにその綱目ばかりをげてこれを松風会諸子しょうふうかいしょしにいたす。
俳諧大要 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
悉達しった太子出家して苦行六年に近く畢鉢羅ひっぱら樹下じゅげに坐して正覚しょうがくを期した時、波旬はじゅんの三女、可愛、可嬉、喜見の輩が嬌姿荘厳し来って、何故心を守って我をざる
悉達多は六年の苦行の後、菩提樹ぼだいじゅ下に正覚しょうがくに達した。彼の成道の伝説は如何に物質の精神を支配するかを語るものである。彼はまず水浴している。それから乳糜にゅうびを食している。
侏儒の言葉 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
如来は、如実の道に乗じて、きたって正覚しょうがくを成す、とある通り仏の最上美称であって、阿弥陀あみだ釈迦しゃか薬師やくし大日だいにちなどをいうのであります。如来が一番むずかしいものとなっている。
かれの喝棒かつぼうを食って、今日の更生を得た大岡市十郎——いまの越前守は、その後も、文通の上で、正覚しょうがくの道をたずね、身は市井の公吏と劇務の中にあっても、心は在家ざいけ居士こじ、鉄淵の弟子として
大岡越前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それは久遠くおんの昔に果されてしまったことなのである。既に早く仏が正覚しょうがくを取ってしまったというからには、美醜の二を超えることが成就じょうじゅされてしまっているのである。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
臨済寺の雪斎和尚せっさいおしょうにいわせると、禅家では、人相よりも、肩の相——肩相けんそうというものをたいへん尊ぶ。肩を見て、その人間が、正覚しょうがくを得ているやいなや、できておるか、おらぬか、分るそうじゃ。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
成仏はまた「作仏」とか「行仏」とかいわれる。仏が仏自らを作る行いが、物に現れる時美しい物と呼ばれるのである。それで美しい仏を見るということは、正覚しょうがくの相、成仏の姿を仰ぐことである。
民芸四十年 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)
「救いを果さずば吾れ正覚しょうがくをとらじ」
工芸の道 (新字新仮名) / 柳宗悦(著)