宗良むねなが)” の例文
じつにさまざまな人だったが、硫黄いおう島からよび戻された僧の文観もんかんやら、讃岐さぬきの配所にいた宗良むねなが親王などもそのうちのお一人だった。
その上、為世の女(贈従三位為子いし)は後醍醐天皇の側近に侍し、その腹に尊良たかなが親王・宗良むねなが親王のような英邁えいまいの皇子がお生れになっている。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
十二月三十一日 信濃しなの神社は宗良むねなが親王をまつる。奉納の句を徴さる。
五百五十句 (新字旧仮名) / 高浜虚子(著)
宗良むねなが親王はいま信濃にあり、新田義貞の遺子や脇屋義助の遺臣も、坂東ばんどうの野に伏して、時節を待つこと、すでに久しいものがある。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
打倒尊氏の大旆たいはいをひるがえして、その郷土郷土からふるい立ち、信濃の宗良むねなが親王軍も、ぞくぞく碓氷うすい峠を南へくだっているという。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かみどう行宮あんぐうは、ご寝所も、常の陣座の間も、まことに手ぜまな所だったが、そこへ御出座あるやいな、尊良たかなが宗良むねながの二皇子へたいして
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
客の僧は、後醍醐の御子みこ尊澄そんちょう宗良むねなが親王)であった。すがすがと、痩せてお若く、和歌のおすきな、あの法親王なのである。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これを見た顕家あきいえの傷心はいうまでもなかった。彼が、宗良むねながと義良の両宮にお別れしたのもそのためではなかったか。
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
かの土佐に流された一ノ宮尊良たかながや、讃岐へ流された宗良むねながも、ひとつおん母であるから、二皇子のじつの御妹にあたるわけで、その年、十六歳であったという。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
この古戦場の白骨は皆、宗良むねなが親王のお歌に泣いて、親王のお歌どおりに奮戦して死んだ人々だった。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
はははは、いかにも宗良むねながらしい歌よな。だがこれからは、すべて朝政に一統され、公武の別などなく、武士も朝臣あそんとしてみなちょうに仕え、公卿も武を忘れてはならぬのだ。
阿曾あそノ宮は、山伏姿となって吉野の奥へはしり、妙法院ノ宮宗良むねながは、湖を渡って、遠江とおとうみ方面へ落ちてゆかれた。——すべて離散の人もみな霏々ひひたる枯葉こようの行方と変りがない。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「かねての、ちょうじ合せをふくみ、護良もりなが(大塔ノ宮)と宗良むねながのふたりも、一山の衆徒をひきい、白川口、大津あたりまで出て、待ち迎えんと、書中に見らるる。——藤房、忠顕ただあき
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここにまた、帝の一ノ宮尊良親王たかながしんのう宗良むねながの兄)は、その夜のことを、ほかにいて聞き知られるやいな、馬に乗って、単身お父君のあとを、奈良街道の方へ追っかけて行かれた。
私本太平記:04 帝獄帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
ここに、一ノ宮尊良たかながの名があるのは、すでに後醍醐の立たれた翌八日、尊良、宗良むねながの二皇子もまた京を発して、讃岐と土佐へ、別れ別れ、護送されて行く途中にあることをいったものなのである。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
一ノ宮尊良たかなが宗良むねながの二皇子は、土佐と讃岐へ流された。
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
その折、宗良むねなが親王が。
宮本武蔵:07 二天の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)