嘉吉かきつ)” の例文
嘉吉かきつの土一揆、民衆の強要による一国平均の沙汰さたは、彼の三十九歳の時のことで、民衆の運動は彼の熟知していたところであるが
祖父は播磨はりまくに赤松氏あかまつうじに仕えていたが、去る嘉吉かきつ元年の乱に、赤松氏の城を去って、この地にやってきて、それから庄太夫にいたるまで三代の間
後醍醐ごだいご天皇の延元えんげん元年以来五十余年で廃絶はいぜつしたとなっているけれども、そののち嘉吉かきつ三年九月二十三日の夜半やはんくすのき二郎正秀と云う者が大覚寺統だいかくじとうの親王万寿寺宮まんじゅじのみやほうじて、急に土御門つちみかど内裏だいりおそ
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
祖父おほぢ播磨はりま一四赤松に仕へしが、んぬる一五嘉吉かきつ元年のみだれに、一六かのたちを去りてここに来り、庄太夫にいたるまで三代みよて、一七たがやし、秋をさめて、家ゆたかにくらしけり。
一書によると、王のおとしは十八さいであったと云われる。また、嘉吉かきつの乱にいったん滅亡めつぼうした赤松の家が再興されたのは、その時南朝の二王子をしいして、神璽を京へ取りもどした功績に報いたのであった。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)