“野狐禅”の読み方と例文
旧字:野狐禪
読み方 | 割合 |
---|---|
やこぜん | 100.0% |
(注) 作品の中でふりがなが振られた語句のみを対象としているため、一般的な用法や使用頻度とは異なる場合があります。
猛獣の性慾が壮観であるなぞといふ薄つぺらな逆説をもてあそびもつて肉体の醜が救はれたかの野狐禅的悟りに続々ととらはれてゐる。
“野狐禅”の意味
《名詞》
野狐 禅 (やこぜん)
〔仏教〕
禅を学んだ者が実際には未熟であるにもかかわらず、うぬぼれてあたかも悟りを得たかの様に思い込み、振る舞う事。
禅を学んで悟りを得たかの様に思い込み、うぬぼれた未熟者。
(出典:Wiktionary)
野狐 禅 (やこぜん)
〔仏教〕
(出典:Wiktionary)
“野狐禅”の解説
野狐禅(やこぜん)とは、禅宗において、禅に似て非なる邪禅のこと。「無門関」第2則の「百丈野狐」に出る語である。野狐(やこ)とは低級な妖狐の1つ。野狐精(やこぜい)、野狐身(やこしん)、また生禅(なまぜん)ともいう。
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
(出典:Wikipedia)
「仏法は無我にて候」として真実の仏陀は自我を空じた無我のところに自覚体認されるはずのものなのに、徒(いたずら)に未証已証(みしょう・いしょう、いまだ証していないのに既に証覚を得た)という、独り善がりの大我禅者をいう。いわゆる魔禅の1つ。
(出典:Wikipedia)
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