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新羅
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しんら
ふりがな文庫
“
新羅
(
しんら
)” の例文
新羅
(
しんら
)
、
百済
(
はくさい
)
、
高麗
(
こうらい
)
に逃げたいと夢のようなことをいえば、いや雲の果て、地の果て、海の彼方に行きたいと叫び出す者もいる。
現代語訳 平家物語:08 第八巻
(新字新仮名)
/
作者不詳
(著)
すなわちここは
新羅
(
しんら
)
三郎以来の父祖の地、同じ戦うにも死ぬにも、最後の最後まで、先祖の地でそれをなすべきで、
新府
(
しんぷ
)
を捨てて
奔
(
はし
)
るのは
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
武田の家は、源義家の弟
新羅
(
しんら
)
三郎義光の後で、第十六代信虎の子が信玄である。幼名勝千代、天文五年十六歳で将軍足利義晴より
諱字
(
いみな
)
を賜り、晴信と称した。
川中島合戦
(新字新仮名)
/
菊池寛
(著)
それにはこの森を深夜に
独
(
ひと
)
りで踏み越えた豪胆者として坂田金時や
新羅
(
しんら
)
三郎の名前が数えられて、今なおその記録を破る冒険者は出現しないと流言されている。
ゼーロン
(新字新仮名)
/
牧野信一
(著)
「
新羅
(
しんら
)
、
高羅
(
こうら
)
、
百済
(
はくさい
)
」(シラギ、コマ、クダラ)を三年でまわり、「三韓の王は窮したろう」と仰せになった。それを、いつの日からか落語の『らくだの馬さん』は
江戸前の釣り
(新字新仮名)
/
三遊亭金馬
(著)
▼ もっと見る
八大
(
はちだい
)
の魚や
新羅
(
しんら
)
の鳥さへ、
大雅
(
たいが
)
の巖下に
游
(
あそ
)
んだり、
蕪村
(
ぶそん
)
の樹上に
棲
(
す
)
んだりするには、余りに
逞
(
たくま
)
しい気がするではないか? 支那の画は実に思ひの
外
(
ほか
)
、日本の画には似てゐないらしい。
支那の画
(新字旧仮名)
/
芥川竜之介
(著)
松平
大和守
(
やまとのかみ
)
には客分にあつかわれ、
新羅
(
しんら
)
三郎
義光
(
よしみつ
)
の後胤甲斐源氏の名門であり、剣を取らせては海内の名人、しかも家計は豊かであって、倉入り千俵と云われて居り、門弟の数
大略
(
おおよそ
)
二千
剣侠
(新字新仮名)
/
国枝史郎
(著)
老人
新羅
(
しんら
)
三郎が笙曲を授くるような顔して、ニッとも笑わず語り出でしは、旧伝に絶えてなきを
饅頭
(
まんじゅう
)
と名づく、これかえって
太
(
いた
)
く凶ならず、わずかにあるをカワラケと呼び、極めて不吉とす
十二支考:05 馬に関する民俗と伝説
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
いかに
新羅
(
しんら
)
三郎以来の家武田氏が、ひと頃の隆盛を極めた文化があった所にせよ、中央の精兵と衛軍の豪美荘重な
粧
(
よそお
)
いにはくらべようもない。
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
新羅
(
しんら
)
三郎以来の名族、また余りに
宇内
(
うだい
)
に
耀
(
かがや
)
きすぎた信玄の名にたいしても、勝頼たるものが甘んじて今さら、信長の
膝下
(
しっか
)
に、降を乞えるものではない。
新書太閤記:06 第六分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“新羅”の解説
新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 - 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。
(出典:Wikipedia)
新
常用漢字
小2
部首:⽄
13画
羅
常用漢字
中学
部首:⽹
19画
“新羅”で始まる語句
新羅三郎
新羅人
新羅斧
新羅国
新羅媛善妙
新羅三郎義光