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垂仁天皇
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すいにんてんのう
ふりがな文庫
“
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)” の例文
例の
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
のお言いつけによって、
常世国
(
とこよのくに
)
へたちばなの実を取りに行ったあの
多遅摩毛理
(
たじまもり
)
は、
日矛
(
ひほこ
)
の五代目の孫の一人でした。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
第十代
(
だいじゆうだい
)
崇神天皇
(
すじんてんのう
)
と、
次
(
つ
)
ぎの
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
の
頃
(
ころ
)
から、
前
(
まへ
)
が
角
(
かく
)
で
後
(
うしろ
)
の
圓
(
まる
)
い
前方後圓
(
ぜんぽうこうえん
)
の
立派
(
りつぱ
)
な
車塚
(
くるまづか
)
が、
築
(
きづ
)
かれるようになつたことは
疑
(
うたが
)
ひありません。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
それから
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
のおいいつけで、はるかな
海
(
うみ
)
を
渡
(
わた
)
って、
常世
(
とこよ
)
の
国
(
くに
)
までたちばなの
実
(
み
)
を
取
(
と
)
りに行った
田道間守
(
たじまもり
)
は、
天日矛
(
あまのひぼこ
)
には五
代
(
だい
)
めの
孫
(
まご
)
でした。
赤い玉
(新字新仮名)
/
楠山正雄
(著)
とにかく
埴輪
(
はにわ
)
といふものが
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
の
御代前後
(
みよぜんご
)
から
始
(
はじ
)
まつて、
四五百年
(
しごひやくねん
)
ぐらゐもつゞいたことは
確
(
たしか
)
らしいのであります。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
崇神天皇
(
すじんてんのう
)
のおあとには、お子さまの
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
がお位をお
継
(
つ
)
ぎになりました。
古事記物語
(新字新仮名)
/
鈴木三重吉
(著)
▼ もっと見る
その
垂仁天皇
(
すいにんてんのう
)
の
時
(
とき
)
に、あの
野見宿禰
(
のみのすくね
)
が
埴輪
(
はにわ
)
を
造
(
つく
)
つたと
傳
(
つた
)
へられてゐることは
前
(
まへ
)
に
申
(
まを
)
しました。
博物館
(旧字旧仮名)
/
浜田青陵
(著)
“垂仁天皇”の解説
垂仁天皇(すいにんてんのう、崇神天皇29年1月1日 - 垂仁天皇99年7月1日)は、日本の第11代天皇(在位:垂仁天皇元年1月2日 - 垂仁天皇99年7月1日)。『日本書紀』での名は活目入彦五十狭茅天皇。治世には様々な起源伝承が語られる。先代の崇神天皇、次代の景行天皇と共に纒向遺跡付近に都したと伝えられる天皇の一人であり、考古学上、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろの大王と推定されるが、定かではない。
(出典:Wikipedia)
垂
常用漢字
小6
部首:⼟
8画
仁
常用漢字
小6
部首:⼈
4画
天
常用漢字
小1
部首:⼤
4画
皇
常用漢字
小6
部首:⽩
9画
“垂仁”で始まる語句
垂仁
垂仁朝
垂仁紀