危懼きく)” の例文
それに代つて、一そう切実な危懼きくと不安とがあつた。危懼は、若い医者がひよつとして何か失策をしはしないかといふことである。
少年 (新字旧仮名) / 神西清(著)
「いま『嫌な奴』と取組みはじめた作家たちが、もし『嫌な奴』に負けてしまったなら、どのような事が起るだろう」と我知らず洩されている片岡氏の危懼きく
奈何いかんせん寒微かんびより起りて、古人の博智無く、善をよみし悪をにくむこと及ばざること多し。今年七十有一、筋力衰微し、朝夕危懼きくす、はかるに終らざることを恐るのみ。
運命 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
一同は驚愕きょうがく危懼きくの念にあおくなった。七人の凶暴無慚きょうぼうむざんの悪漢が、いまこの島を徘徊はいかいしている。かれらは人を殺すことは草をきるよりもよういに思う者どもである。
少年連盟 (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
いとに狂ひ、波を打ち、一進一退、牽けども痿えず、はなてども弛まず、釣客をして、危懼きくしながらも、ぞくぞく狂喜せしむるものは只鱸のみにて、釣界中、川魚の王は
大利根の大物釣 (新字新仮名) / 石井研堂(著)
七十五年生息不可能説が爆撃直後伝えられたので、人々の間に焼け跡復帰を危懼きくする声が高かった。
長崎の鐘 (新字新仮名) / 永井隆(著)
町全体の神経は、そのことの危懼きくと恐怖で張りきっていた。美学的に見えた町の意匠は、単なる趣味のための意匠でなく、もっと恐ろしい切実の問題を隠していたのだ。
猫町:散文詩風な小説 (新字新仮名) / 萩原朔太郎(著)
何を危懼きくし、何を遠慮する要があろう? もはや恋愛をも野心をも持ってはいないではないか。
その危懼きくからだ。それに旅先で脳貧血でも起したら、みっともない。しかし五右衛門風呂なので、少しずつじりじりと熱くなる。水道のホースから、水をがぼがぼ入れてさます。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
お前は私のここにいるのを碌々ろくろく顧みもせずに、習慣とか軽い誘惑とかに引きずられて、ぐに友達と、聖書と、教会とに走って行った。私は深い危懼きくを以てお前の例の先き走りを見守っていた。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
気まずい沈黙におちいる危懼きくが、全く無いという事でした。
人間失格 (新字新仮名) / 太宰治(著)
あいつが死ねるものかという気分と、死ぬかも知れないという危懼きくが交錯して、五郎をいらいらさせている。火口のふちに、有料の望遠鏡がある。五郎はそれに取りついて、十円玉を入れる。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)
大きな威力は無尽蔵に周囲にある。然し私のおびえた心はその何れにも無条件的な信頼を持つことが出来ないで、危懼きくと躊躇とに満ちた彷徨の果てには、我ながら憐れと思う自分自身に帰って行くのだ。
惜みなく愛は奪う (新字新仮名) / 有島武郎(著)
その危懼きくはあった。だから何度も何度もふり返り、風物を確めながら、ここまで歩いて来たのだ。ほっとひらけた風景は、たちまち彼を拒否した。家も何軒か建っている。プレハブ住宅もある。
幻化 (新字新仮名) / 梅崎春生(著)