保科ほしな)” の例文
保科ほしな弾正槍弾正やりだんじょう、高坂弾正逃弾正にげだんじょう」を以てあえて争わなかったところは、沈勇にしてはかりごとを好む人傑の面影を見ることもできます。
大菩薩峠:19 小名路の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
「だがほかに人がいないわけではあるまい」と安芸が云った、「将軍家補佐として保科ほしな正之まさゆき)侯もおり、川越の侍従(松平信綱)もおられる筈だ」
慶長十四年に藤堂佐渡守高虎とうだうさどのかみたかとらが率先して妻子を江戸に置くことにしたのを始として、元和げんな元年大阪落城の後、黒田家でも忠之の父長政ながまさが、夫人保科ほしな氏に長女とく、二男犬萬
栗山大膳 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
「まあよいよい。伊勢佐木署の保科ほしなさんならあとでおわびをすればいい。とにかく、こちらへ」
かんかん虫は唄う (新字新仮名) / 吉川英治(著)
東北路は山形二十万石の保科ほしな侯に、それから仙台六十四郡のあるじ伊達だて中将、中仙道なかせんどう口は越前えちぜん松平侯に加賀百万石、東海道から関西へかけては、紀州、尾州、ご両卿りょうきょう伊勢いせ松平、雲州松平
その随行としては杉浦愛蔵、保科ほしな俊太郎、渋沢篤太夫、高松凌雲、箕作みづくり貞一郎、山内元三郎らをはじめ、水戸、会津、唐津等から、それぞれの人材が出かけることになりました。
大菩薩峠:17 黒業白業の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
旗上げは諏訪すわの入道昭雲が主となって、高時のわすれがたみ北条時行(亀寿丸)をいただき、滋野しげの保科ほしな、四ノ宮などの北条遺臣の族党をかたらってったものとわかってきた。
「涌谷さまが訴訟のために出府を許されてから、御譜代ふだい外様とざまの大名がたでいろいろとうわさがあり、会津中将(保科ほしな正之)さまでさえ、一ノ関が悪いと仰せられているということです」
それがし高坂弾正かうさかだんじやうと申して、信玄公被管ひくわんの内にて一の臆病者也、仔細は下々しもじもにて童子わらべこどものざれごとに、保科ほしな弾正やり弾正、高坂弾正にげ弾正と申しならはすげに候、我等が元来を申すに
大菩薩峠:15 慢心和尚の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
その夜は、保科ほしなの山路をこえて、大木の蔭に、わずかな一睡をとった。
上杉謙信 (新字新仮名) / 吉川英治(著)