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雲母坂
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きららざか
ふりがな文庫
“
雲母坂
(
きららざか
)” の例文
この南嶺から東に
降
(
くだ
)
れば、
穴太村
(
あなふとむら
)
白鳥坂に出るし、西に
降
(
くだ
)
ればまっすぐに修学院白河村——あの
雲母坂
(
きららざか
)
や
下
(
さが
)
り
松
(
まつ
)
の辻につながる。
宮本武蔵:05 風の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
雲母坂
(
きららざか
)
を越えて斜めに降りてくる範宴の姿や、その他の迎えの人々が見え初めたのである。
輦
(
くるま
)
の
簾
(
れん
)
をあげて、牛飼は
軌
(
わだち
)
の位置を向きかえた。
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
そして徐々に、
叡山
(
えいざん
)
山麓の西がわ——西坂本、
雲母坂
(
きららざか
)
——へかけて厚い布陣をみせ、なお次の新手を翌日には加えていた。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「また、いうまでもなく、叡山から内裏への途々には、六波羅の眼が油断あるまい。
雲母坂
(
きららざか
)
、白川道など、いずれを行くも危うかろうぞ。なんとするか」
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
ために
雲母坂
(
きららざか
)
では、
高
(
こう
)
ノ
豊前守
(
ぶぜんのかみ
)
(
師久
(
もろひさ
)
)以下、一族、部将格二十何名かを、いちどに
亡
(
うしな
)
うなどの大難戦もあった。
私本太平記:12 湊川帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
「花ノ木村から一乗寺
藪之郷
(
やぶのごう
)
——すなわち、貴所の死場所の下り松を経て——これから
叡山
(
えいざん
)
の
雲母坂
(
きららざか
)
へ通っております。それゆえ、雲母坂道ともいう裏街道」
宮本武蔵:05 風の巻
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
鷺
(
さぎ
)
のように風に吹かれて
佇
(
たたず
)
んでいる二人の
女性
(
にょしょう
)
があった。
雲母坂
(
きららざか
)
の登り口なのである。ここから先は
女人
(
にょにん
)
の足を一歩もゆるさない浄地の
結界
(
けっかい
)
とされているのだ。
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
装備、
腰糧
(
こしがて
)
など、
午
(
ひる
)
までに万端、発向の用意をおわること。やがて、二度の
鐘合図
(
かねあいず
)
ととも、一手は
日吉
(
ひえ
)
坂本より大津ぐちへ、一勢は
雲母坂
(
きららざか
)
より上加茂へうごき出るぞ。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
六波羅がたは、今日の
午下
(
ひるさが
)
りから、叡山方が、両親王の下知のもとに、一手は
雲母坂
(
きららざか
)
から、一手は大津へゆるぎ出たのを知り、すぐさま粟田、蹴上に一陣を押し進めた。
私本太平記:04 帝獄帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
雲母坂
(
きららざか
)
にいた山法師の一軍、赤山明神下の洞院ノ
実世
(
さねよ
)
の七千人。これが一時にうごき出すと、
鼓
(
こ
)
を合せて、白川越えの上や
鹿
(
しし
)
ヶ
谷
(
たに
)
のふところでも山を裂くような武者声がわきあがった。
私本太平記:10 風花帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
雲母坂
(
きららざか
)
へかかっても、まだ夜は明けなかった。
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“雲母坂”の解説
雲母坂(きららざか)は、京都市左京区修学院の修学院離宮の脇より比叡山の山頂に至る古道である。
(出典:Wikipedia)
雲
常用漢字
小2
部首:⾬
12画
母
常用漢字
小2
部首:⽏
5画
坂
常用漢字
小3
部首:⼟
7画
“雲母”で始まる語句
雲母
雲母摺
雲母紙
雲母刷
雲母越
雲母雲
雲母色
雲母光
雲母岩
雲母末