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貞観
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じょうがん
ふりがな文庫
“
貞観
(
じょうがん
)” の例文
旧字:
貞觀
その始めて鷲津氏を以て姓となしたのは
清和
(
せいわ
)
天皇
貞観
(
じょうがん
)
五年八月大領司に補した
好蔭
(
よしかげ
)
なるものより三世の孫
俊行
(
としゆき
)
というものからであるらしい。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
唐
(
とう
)
の
貞観
(
じょうがん
)
のころだというから、西洋は七世紀の初め日本は年号というもののやっと出来かかったときである。
閭丘胤
(
りょきゅういん
)
という官吏がいたそうである。
寒山拾得
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
貞観
(
じょうがん
)
三年奏聞を
経
(
へ
)
唐に渡りここには明師なしとて天竺に渡る、唐土の帝渡天の志を感じて多くの宝を与えたまいけるに
十二支考:01 虎に関する史話と伝説民俗
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
これは清和天皇が
貞観
(
じょうがん
)
年中に
慈覚大師
(
じかくだいし
)
を
紫宸殿
(
ししんでん
)
に請じて天皇、皇后共に円戒を受けられたという前例がある。法然上人は法統から云えば慈覚大師より九代の法孫に当る。
法然行伝
(新字新仮名)
/
中里介山
(著)
古い一例を挙げれば清和天皇の御代
貞観
(
じょうがん
)
十六年八月二十四日に
京師
(
けいし
)
を襲った大風雨では
颱風雑俎
(新字新仮名)
/
寺田寅彦
(著)
▼ もっと見る
この絵は
宋初
(
そうしょ
)
のものとされているので、本当の
玄奘三蔵
(
げんじょうさんぞう
)
法師が、
唐
(
とう
)
の
太宗
(
たいそう
)
の
貞観
(
じょうがん
)
三年に
長安
(
ちょうあん
)
の都を辞して、
遥々
(
はるばる
)
印度への旅についた頃から見ると、三百年くらいも後に描かれたことになる。
『西遊記』の夢
(新字新仮名)
/
中谷宇吉郎
(著)
新潟県高田の鯰は
貞観
(
じょうがん
)
五年と宝暦元年に活躍し、間隔は八百八十八年、長野県北部の鯰は仁和三年と弘化四年で、間隔は九百六十年、伊豆の鯰は承和八年と昭和五年で、間隔は千八十九年
地震なまず
(新字新仮名)
/
武者金吉
(著)
貞観
(
じょうがん
)
四年頃の旧記もあるということから、またここは松尾の
雷神
(
いかずちがみ
)
の神別所で遠いむかしは、丹波山城の国境もふくめて、この地方一帯を「
阿多古
(
あたこ
)
」と
称
(
とな
)
え、阿多古の神山と仰がれていたが
新書太閤記:07 第七分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
良弁堂の良弁像が良弁の自作であるという伝えは、この像が
貞観
(
じょうがん
)
時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。
古寺巡礼
(新字新仮名)
/
和辻哲郎
(著)
〈『
戎幕間談
(
じゅうばくかんだん
)
』曰く、
茅山
(
ぼうざん
)
竜池中、その竜蜥蜴のごとくにして五色なり、昔より厳かに奉ず、
貞観
(
じょうがん
)
中竜子を敷取し以て
観
(
み
)
る、御製歌もて送帰す、黄冠の徒競いてその神に
詫
(
わ
)
ぶ
十二支考:03 田原藤太竜宮入りの話
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
貞観
(
じょうがん
)
十一年(西暦八六九)五月二十六日
地震なまず
(新字新仮名)
/
武者金吉
(著)
“貞観”の意味
《固有名詞》
貞観(じょうがん)
日本の元号の一つ。天安の次で、元慶の前。859年4月15日から877年4月16日までの期間のこと。
中国の唐王朝における元号の一つ。627年から649年までの期間のこと。
(出典:Wiktionary)
貞
常用漢字
中学
部首:⾙
9画
観
常用漢字
小4
部首:⾒
18画
“貞観”で始まる語句
貞観政要
貞観式