紅塵こうじん)” の例文
まだ若かった私は、酒場の堅い腰掛の端にかけて、暖簾のれんの隙間から、街頭に紅塵こうじんを上げて走る風に眼を遣りながら独り杯を含んでいました。
春風遍し (新字新仮名) / 小川未明(著)
総勢数えて三十余人、草履あるいは跣足はだしにて、砂を蹴立て、ほこりを浴び、一団の紅塵こうじん瞑朦めいもうたるに乗じて、疾鬼しっき横行の観あり。
貧民倶楽部 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
糠粒ぬかつぶを針の目からこぼすような細かいのが満都の紅塵こうじん煤煙ばいえんかして濛々もうもうと天地をとざうちに地獄の影のようにぬっと見上げられたのは倫敦塔であった。
倫敦塔 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
たまらなくなる! 然しです、僕の一念ひとたびかの願に触れると、こんなことは何でもなくなる。もし僕の願さえ叶うなら紅塵こうじん三千丈の都会に車夫となっていてもよろしい。
牛肉と馬鈴薯 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
場所はまだ下町の中央に未練があって、毎日、その方面へ探しに行くらしかった。帰って来たときの疎髯そぜんを貯えた父の立派な顔が都会の紅塵こうじん摩擦まさつされた興奮と、つかれとで、異様にゆがんで見えた。
渾沌未分 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
絵画彫刻の美を感ずる人は紅塵こうじん十丈の裏にありても山林閑栖のたのしみを得べく、山水花鳥の美を感ずる人は貧苦困頓の間にありても富貴栄華の楽を得べし。間接には美の心は慈悲性を起し残酷性をしりぞく。
病牀譫語 (新字旧仮名) / 正岡子規(著)
再び鳴きて頸を引く簷頭えんとうの下、月中の角声馬に上るを催す、わずかに地色を分ち第三鳴、旌旆せいはい紅塵こうじんすでに城をづ、婦人城に上りて乱に手を招く、夫婿聞かず遥かに哭する声、長く恨む鶏鳴別時の苦
少し遠慮して、間をおいて、三人でひとしく振返ると、一脈の紅塵こうじん、軽く花片はなびらを乗せながら、うしろ姿を送って行く。……その娘も、町の三辻の処で見返った。春たけなわに、番町の桜は、しずかである。
古狢 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)