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生野
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いくの
ふりがな文庫
“
生野
(
いくの
)” の例文
「いまから阿倍野、
生野
(
いくの
)
を歩いて、淀へ出るには大ごとです。夜が明ければ、
出見
(
いでみ
)
ノ浜から
難波
(
なにわ
)
へ通う乗合舟がある。それにお乗りなされては」
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
天保十四年六月簡堂が
生野
(
いくの
)
銀山視察の途上、大坂の客舎にあってその母の
訃
(
ふ
)
に接した時の日記の文の如きはわたくしの
愛誦
(
あいしょう
)
して
措
(
お
)
く
能
(
あた
)
わざるものである。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
とうとう黒田藩の
眼星
(
めぼ
)
しい人物は、殆んど一人も居なくなってしまった。たまたま脱藩して
生野
(
いくの
)
の銀山で旗を挙げた平野次郎ぐらいが目っけもの……という情ない状態に陥った。
近世快人伝
(新字新仮名)
/
夢野久作
(著)
八月から四年四月までのあいだに
大和
(
やまと
)
・
生野
(
いくの
)
・
筑波
(
つくば
)
の挙兵、六月の長兵大挙上洛と
蛤門
(
はまぐりもん
)
の敗戦、ただちに征長詔勅、そして征長軍が進発しないうち四国連合艦隊に攻められて大敗
尊攘戦略史
(新字新仮名)
/
服部之総
(著)
案内記によると、和田山はもと
播磨
(
はりま
)
ざかひの
生野
(
いくの
)
から
出石
(
いづし
)
、
豐岡
(
とよをか
)
方面へ出る街道中の一小驛にとゞまつてゐたが、汽車が開通してからだん/\開けて、今では立派な市街になりつゝあるといふ。
山陰土産
(旧字旧仮名)
/
島崎藤村
(著)
▼ もっと見る
遠いむかしは
大枝山
(
おおえやま
)
から
生野
(
いくの
)
を経て裏日本へ出る
駅路
(
うまやじ
)
のあった跡だという。
篠村八幡
(
しぬむらはちまん
)
の森を中心として、この辺りを
能篠畑
(
のしぬばたけ
)
とも、
篠野
(
しぬの
)
の
里
(
さと
)
とも
称
(
よ
)
んでいる。
新書太閤記:07 第七分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
天保十二年五月簡堂は水野越前守忠邦が革政の際総毛の代官より
抜擢
(
ばってき
)
せられて勘定吟味役兼
納戸頭
(
なんどがしら
)
となり、天保十四年六月
但馬国
(
たじまのくに
)
生野
(
いくの
)
銀山の視察に出張し、同年九月帰府の後
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
竹崎の白石兄弟は、弟廉作の方が、
矢立
(
やたて
)
をすてて
生野
(
いくの
)
挙兵の主部隊に参加して死んだ。
志士と経済
(新字新仮名)
/
服部之総
(著)
あの
大和
(
やまと
)
五条にも、
生野
(
いくの
)
にも、
筑波山
(
つくばさん
)
にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に
烽起
(
ほうき
)
しつつあった討幕運動は——実に、こんな
熾仁親王
(
たるひとしんのう
)
を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。
夜明け前:03 第二部上
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
平野国臣
(
ひらのくにおみ
)
や、
沢主水正
(
さわもんどのしょう
)
、そのほか、京方の志士浪人ばら、
生野
(
いくの
)
の銀山に旗挙げしたとある! うっかりしたら江戸へも飛び火じゃぞっ!
詳
(
くわ
)
しいことは読んでお知り——さあっ、瓦版じゃあ、瓦版じゃ
脚
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
生
常用漢字
小1
部首:⽣
5画
野
常用漢字
小2
部首:⾥
11画
“生野”で始まる語句
生野暮
生野銀山