法眼ほうげん)” の例文
今わたくしの手近てぢかにある系図には、一豊の弟は織田信長おだのぶながに仕えた修理亮しゅりのすけ康豊やすとよと、武田信玄たけだしんげんに仕えた法眼ほうげん日泰にったいとの二人しか載せてない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
保胤の兄保憲は十歳ばかりの童児の時、法眼ほうげん既に明らかにして鬼神を見て父に注意したと語り伝えられた其道の天才であり
連環記 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
小石川伝通院裏吉田法眼ほうげん様のご後室へ、たしかに三蓋松の紋つきちりめんをひとそろいお届けいたしましたと、呉服後藤の店の者がいってるんだ。
つづいて十一月には一番目『太功記たいこうき馬盥ばだらいより本能寺ほんのうじ討入まで団洲だんしゅう光秀みつひで菊五郎春永はるながなり中幕団洲の法眼ほうげんにて「菊畑きくばたけ」。
書かでもの記 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
法眼ほうげんは、いつにない厳しい声で、侍僧に命じた。——法眼というのは、支那唐代に於ける禅門の偉材で、五百人の善知識と伝えられた達人であった。
青年の思索のために (新字新仮名) / 下村湖人(著)
「兄上、ここを開けましたる次の部屋に置きます屏風は、狩野かのう法眼ほうげん永徳えいとくあたりが、出ず入らずのところと——。」
元禄十三年 (新字新仮名) / 林不忘(著)
行灯あんどん、といった世帯道具の半端物ですが、中には大擬おおまがもの高麗焼こうらいやきつぼ紫檀したんの半分欠け落ちた置物、某法眼ほうげんの偽物の一軸、古九谷の贋物にせものの花瓶——といった
そのあとで上皇は末社にいたるまで隈なく御幸になり、また厳島の座主尊永を法眼ほうげんの位に上らせるなど、神主たちの位階昇進を行なわれたが、入道相国の心もこれでやわらぐかと思われた。
詑摩たくま法眼ほうげん澄賀ちょうがに仰せて善導和尚の姿を描かせ、後京極殿が銘を書き、安居院の聖覚法印を導師とした、聖覚も同じ病に冒されていたが師の為に進んで祈乞をこらすと善導の絵姿の前に異香が薫じ
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
そしてこれと同時に、総裁二人ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良あんりょう法眼ほうげんである。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
隠宅というとふた間か三間の小さな家にきこえるが、法眼ほうげんといえば位は最上、ろくは百五十石、はぶりをきかした大奥仕えのお鍼医はりいの未亡人がこの世を忍ぶ住まいです。
茝庭が既にいて、暁湖がなお存していた時に成ったもので、茝庭の子安琢あんたくが多紀安琢二百俵、父楽春院らくしゅんいんとして載せてあり、暁湖は旧にって多紀安良あんりょう法眼ほうげん二百俵、父安元あんげんとして載せてある。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
「いいえ、お鍼医はりいの吉田法眼ほうげんさまでござります」