文治ぶんじ)” の例文
昔は村国の庄司しょうじと云って、その家の旧記によると、文治ぶんじ年中、義経よしつねと静御前とが吉野へ落ちた時、そこに逗留とうりゅうしていたことがあると云われる。
吉野葛 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
明けて文治ぶんじ二年の一月末には、静も母も、鎌倉幕府の罪人として、安達あだちしんろう清経きよつねやしきに預けられていた。
日本名婦伝:静御前 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
有王ありおうが、故主の俊寛を尋ねて、都からはるばると九ごくに下り、そこの便船を求めて、硫黄商人の船に乗り、鬼界ヶ島へ来たのは、文治ぶんじ二年の如月半きさらぎなかばのことだった。
俊寛 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それからまた、文治ぶんじ五年九月に奥州の泰衡やすひらがほろびると、その翌年、すなわち建久元年の二月に、泰衡の遺臣大河次郎重任おおかわじろうしげとう(あるいは兼任かねとうという)が兵を出羽でわに挙げた。
かたき討雑感 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
『千載集』の奏覧は後鳥羽ごとば天皇の文治ぶんじ三年(一一八七)で、撰者藤原俊成は七十四歳であった。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
文治ぶんじが九つ、自分が六つのとき、父は兄弟を残して江戸へ立ったのである。父が江戸から帰った後、兄弟の背丈せたけが伸びてからは、二人とも毎朝書物を懐中して畑打はたうちに出た。
安井夫人 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
文治ぶんじ三年、七十三歳で『千載集』を後白河院の奏覧に供えたのである。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)