寺門静軒てらかどせいけん)” の例文
はじめ余ノ昌平黌ニアルヤ寺門静軒てらかどせいけんマサニ駒籠こまごめヲ去ラントシ、余ニ講帷こういガンコトヲ勧ム。時ニ余一貧洗フガ如シ。コレヲ大沼竹渓翁ニはかル。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
橋の上流下流にて花火を打揚ぐる川開きの夜の賑ひは、寺門静軒てらかどせいけんが記しゝ往時むかしも今も異りなし。橋の下流少許しばしにして東に入るの一水あり。これを
水の東京 (新字旧仮名) / 幸田露伴(著)
わたくしははしなく藤沢東畡とうがいの江戸繁昌記評を憶ひ起した。東畡は初三編を読んで寺門静軒てらかどせいけんの才を愛した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
新しい西欧文明をとり入れ出した東京の姿を書いたもので、馬車だとか煉瓦だとかが現われ出した頃のことが書かれてある。これはかの寺門静軒てらかどせいけんの『江戸繁昌記えどはんじょうき』にならって書かれたものである。
明治十年前後 (新字新仮名) / 淡島寒月(著)
江戸時代隅田堤看花の盛況を述るものは、大抵寺門静軒てらかどせいけんが『江戸繁昌記えどはんじょうき』を引用してこれが例証となしている。
向嶋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
九月十五日に鷲津毅堂は長谷川昆渓を駒込こまごめ吉祥寺門前の幽居に訪い偶然寺門静軒てらかどせいけんの来るに会った。静軒が『江戸繁昌記はんじょうき』の著者たることは言うをたない。
下谷叢話 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「東京新繁昌記」は自分がここに説明するまでもなく、寺門静軒てらかどせいけんの「江戸繁昌記」成島柳北なるしまりうほくの「柳橋新誌りうけうしんし」にならつて、正確な漢文をば、故意に破壊して日本化した結果
虫干 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
明和年代に南畝なんぽが出で、天明年代に京伝きょうでん、文化文政に三馬さんば春水しゅんすい、天保に寺門静軒てらかどせいけん、幕末には魯文ろぶん、維新後には服部撫松はっとりぶしょう三木愛花みきあいかが現れ、明治廿年頃から紅葉山人こうようさんじんが出た。
正宗谷崎両氏の批評に答う (新字新仮名) / 永井荷風(著)
「心も晴るる夜半の月、田面たのもにうつる人影にぱつと立つのは、アレ雁金かりがね女夫めおとづれ。」これは畢竟ひっきょう枯荻落雁の画趣を取って俗謡に移し入れたもので、寺門静軒てらかどせいけんが『江頭百詠』の中に
向嶋 (新字新仮名) / 永井荷風(著)