修理亮しゅりのすけ)” の例文
今わたくしの手近てぢかにある系図には、一豊の弟は織田信長おだのぶながに仕えた修理亮しゅりのすけ康豊やすとよと、武田信玄たけだしんげんに仕えた法眼ほうげん日泰にったいとの二人しか載せてない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
まもなく烏山修理亮しゅりのすけ、大井田式部があとを慕って追ッついて来る。また一ノ井兵部、厚東こうとう駿河守、堀口美濃守貞満も、満身、あけの姿で
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
五月七日の払暁、越前少将忠直の家臣、吉田修理亮しゅりのすけ光重はく河内の地に通じたるを以て、先陣として二千余騎を率い大和川へ差かかった。
真田幸村 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
それが勅許があったので、嘉禄三年六月二十二日山門から人をやって墓を破そうとする、その時に六波羅の修理亮しゅりのすけ平時氏は、家来をれて馳せ向い
法然行伝 (新字新仮名) / 中里介山(著)
斯かる処に吉田修理亮しゅりのすけは摂州芥川に堤の普請を承っていたが、洛中の風聞を耳にして汗馬も息するばかりに馳せ着け、御謀叛の儀、もし真実に思し立っておられますなら
聞書抄:第二盲目物語 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
おいの弥四郎と、南江備前守とで、もう一名は途中の和泉いずみから使い先へ加わって行った——これも一族の和田修理亮しゅりのすけ助家だった。
私本太平記:12 湊川帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
賤ヶ岳には桑山修理亮しゅりのすけ(兵一千)、東野山には堀久太郎秀政(兵五千)、大岩山には中川瀬兵衛清秀(兵一千)、神明しんめい山には大鐘藤八(兵五百)、堂木どうぎ山には山路将監(兵五百)
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
つづいては、畠山左京、今川修理亮しゅりのすけ、小山の判官、武田甲斐、そのほか幾十将が、出陣のいとま乞いにと訪れたが、尊氏はそのたれへも会わなかった。
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
当時、織田の長臣柴田修理亮しゅりのすけ勝家は、上杉景勝を討つべく、佐々内蔵助くらのすけ成政、前田又左衛門利家、佐久間玄蕃允げんばのすけ盛政、及び養子伊賀守勝豊以下を率いて、越中魚津に在陣中であった。
賤ヶ岳合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
こうノ武蔵守師直、吉良左兵衛さひょうえじょう、桃井修理亮しゅりのすけ大高たいこう伊予守、上杉伊豆、岩松の禅師頼有らいう、土岐弾正、おなじく道謙どうけん、佐竹義敦よしあつ、ほか三浦、石堂、仁木
私本太平記:10 風花帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
九州探題の北条修理亮しゅりのすけ英時ひでときは、伯耆から次々と入ってくる船上山の情報を手にするたび
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
彼とは、織田随一の出頭人、北陸の探題たんだい、柴田修理亮しゅりのすけ勝家のことである。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
このときの九州探題は、さきにもいったが、北条修理亮しゅりのすけ英時ひでときといった。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
また今、大坂城での錚々そうそうたる一方の将、薄田隼人兼相すすきだはやとかねすけとは、あの男が、漂泊時代に、共に、諸国をあるいたこともある。大野修理亮しゅりのすけとも、三、四度会ったことがあるが、あれはすこし陰性でいかん。
宮本武蔵:04 火の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)