蝦夷えみし)” の例文
蘇我氏は、稲目いなめ馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかの四代を通じ、いずれも、優れた統治者であったものと判断するのが合理的である、と私は考える。
馬子、蝦夷えみし入鹿いるか等の兇暴を国家のために黙視されなかったとはいえ、彼らの内奥ないおうよりの「和」をまず祈念されたのは当然でなかろうか。
大和古寺風物誌 (新字新仮名) / 亀井勝一郎(著)
蘇我ノ蝦夷えみし平群へぐりしび、蘇我ノ赤魚あかお押返おさかえ毛屎けくそ阿曇あずみ蛍虫ほたる——などはまだよいが、巨勢こせ屎子くそこという女性がある。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
仁徳天皇の御代、北方の蝦夷えみしらが叛いた時、上野の勇将田道たぢを大将として征伐させたが、その時の蝦夷えみしはひどく強く、田道たぢは石の巻の港で戦死してしまつた。
大へび小へび (新字旧仮名) / 片山広子(著)
「もののふの大臣おほまへつぎみ」は軍をべる将軍のことで、続紀に、和銅二年に蝦夷えみしを討った将軍は、巨勢麿こせのまろ佐伯石湯さへきのいわゆだから、御製の将軍もこの二人だろうといわれている。
万葉秀歌 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
馬子うまこは、太子の御英明の前に、雌伏してゐる外なかつたが、太子薨去後、その野心を現はし、不臣の振舞多く、その子蝦夷えみし、孫入鹿いるかに至つては、馬子以上に専横を極め
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
大極殿で入鹿いるかが殺され、蝦夷えみしがわが家に殺されたとき、死に先立って、天皇記と国記を焼いたそうだ。もっとも恵尺という男が焼ける国記をとりだして中大兄なかのおおえに奉ったという。
しばしば蝦夷えみし東人あづまびと毛人けびとなどと名乗つたのは、一つには、奥羽地方人の勇猛
津軽 (新字旧仮名) / 太宰治(著)
そこより入りでまして、悉に荒ぶる蝦夷えみしども一四を言向け、また山河の荒ぶる神どもを平け和して、還り上りいでます時に、足柄あしがらの坂もとに到りまして、御かれひきこす處に、その坂の神
もちろんこの改新は反動なしにはすまなかった。北方の蝦夷えみしの征服や唐の勢力の脅威によって新政府が著しく軍国主義的に傾いたとき、かつて行なわれた改新は徐々として逆転せざるを得なかった。
日本精神史研究 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
さて、蘇我氏の権力は、馬子うまこ蝦夷えみし入鹿いるかと、三代にわたって続いたが、とくに馬子は、ひじょうに人望のあった人である。
その後しばらく経つてまた蝦夷えみしが攻め込んで来て田道たぢの墓を掘りかへした。すると墓から大蛇が出て来て多勢の敵をくひ殺した。喰はれなかつた奴らもみんな蛇の毒気にあたつて死んだ。
大へび小へび (新字旧仮名) / 片山広子(著)
中大兄の同志はわずかに五人であったが、大胆にも、宮中で入鹿いるかを刺し殺した。ついで蝦夷えみしを殺害した。そうして完全に、権力を、その一派の手に握ったのである。