ひた)” の例文
呼子より殿の浦の背後を上り、やがて名護屋の渡りに下る湾頭きはまるところ更に入江をなし、あひせまれる両岸の崖は、影を清き潮にひたす。
松浦あがた (新字旧仮名) / 蒲原有明(著)
黄海! 昨夜月を浮かべて白く、今日もさりげなく雲をひたし、島影を載せ、睡鴎すいおうの夢を浮かべて、悠々ゆうゆうとしてよりも静かなりし黄海は、今修羅場しゅらじょうとなりぬ。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
笛吹川の碧潭に影をひたしているなど、捨て難い風情はありながら、何度となく通り慣れては飽きる程長い。
釜沢行 (新字新仮名) / 木暮理太郎(著)
自然とくぼむ二畳ばかりの岩のなかに春の水がいつともなく、たまって静かに山桜の影をひたしている。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
まりの形をしたのやら、目の届く限り残らず岩で、次第に大きく水にひたったのはただ小山のよう。
高野聖 (新字新仮名) / 泉鏡花(著)
一隻は高く虚空にかけりて、大圈を畫し、林樾りんゑつ沼澤を下瞰かかんするが如くなりき。岸に近き水面には緑樹の影を倒せるありて、その中央には碧空の光をひたすを見る。時に大魚の浮べるあり。
去年も城内で犯人が殺されると、癆症ろうしょう病みの人が彼の血を饅頭にひたして食った。
狂人日記 (新字新仮名) / 魯迅(著)
その清い流れはをりをり山百合の白い花や八汐の紅い色をひたした。
日光 (旧字旧仮名) / 田山花袋(著)
円満に動くと云う語があるとすれば、こんな場合に用いられるのだろう。落ちついて影をひたしていた山桜が、水と共に、延びたり縮んだり、曲がったり、くねったりする。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その岩の上に一人の女が、まばゆしと見ゆるまでに紅なる衣を着て、知らぬ世の楽器をくともなしに弾いている。みどり積む水が肌にむ寒き色の中に、この女の影をさかしまにひたす。
幻影の盾 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
「贈りまつれる薔薇のいて」とのみにて男は高き窓より表のかたを見やる。折からの五月である。館をめぐりてゆるく江に千本の柳が明かに影をひたして、空にくずるる雲の峰さえ水の底に流れ込む。
薤露行 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)