前は二軒長屋の平屋ひらやで、砲兵工廠ほうへいこうしょうに勤める人と下駄の歯入れをする人、隣家は宝石類の錺屋かざりやさんで、三軒とも子供が三、四人ずついた。
落合町山川記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
小石川富坂こいしかわとみざかの片側は砲兵工廠ほうへいこうしょう火避地ひよけちで、樹木の茂った間の凹地くぼちにはみぞが小川のように美しく流れていた。
空には蜻蛉とんぼなどが飛んで、足下あしもとくさむらに虫の声が聞えた。二人は小高い丘のうえに上って、静かな空へ拡がって行く砲兵工廠ほうへいこうしょうの煙突の煙などをしばらく眺めていた。
(新字新仮名) / 徳田秋声(著)
藤尾はなめらかなほおに波を打たして、にやりと笑った。藤尾は詩を解する女である。駄菓子の鉄砲玉は黒砂糖を丸めて造る。砲兵工廠ほうへいこうしょうの鉄砲玉は鉛をかしてる。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
電車の通路になってから、あそこいらの様子がまるで違ってしまいましたが、そのころは左手が砲兵工廠ほうへいこうしょう土塀どべいで、右は原とも丘ともつかない空地くうちに草が一面に生えていたものです。
こころ (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
水戸藩邸みとはんていの最後の面影おもかげとどめた砲兵工廠ほうへいこうしょうの大きな赤い裏門は何処へやら取除とりのけられ、古びた練塀ねりべいは赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであったあの水門すいもんはもう影も形もない。
伝通院 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
たとえば砲兵工廠ほうへいこうしょう煉瓦塀れんがべいにその片側を限られた小石川の富坂とみざかをばもう降尽おりつくそうという左側に一筋の溝川みぞかわがある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔こんにゃくえんまの方へと曲って行く横町なぞすなわちその一例である。