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正保
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しょうほう
ふりがな文庫
“
正保
(
しょうほう
)” の例文
そんなら今に
迨
(
いた
)
るまでに、わたくしの見た最古の「武鑑」
乃至
(
ないし
)
その類書は何かというと、それは
正保
(
しょうほう
)
二年に作った江戸の「屋敷附」である。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
それが、
正保
(
しょうほう
)
、
慶安
(
けいあん
)
、
承応
(
じょうおう
)
、
万治
(
まんじ
)
——元禄というように、世が推移してくるにしたがって、世風も士風もおどろくばかり変って来たのである。
梅里先生行状記
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
正保
(
しょうほう
)
元年、
明朝
(
みんちょう
)
が
亡
(
ほろ
)
びて
清朝
(
しんちょう
)
となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく
夜明け前:04 第二部下
(新字新仮名)
/
島崎藤村
(著)
こうしてどうやら身のまわりも落ち着いたと思うとき、水野忠善はふたたび国替えとなり、五万石に
加封
(
かほう
)
のうえおなじ三河の岡崎城へ移された、
正保
(
しょうほう
)
二年七月のことである。
日本婦道記:箭竹
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
平安朝から室町時代へかけて寺運隆盛を極めたらしいが、徳川の
正保
(
しょうほう
)
二年、大風のため堂宇
悉
(
ことごと
)
く倒壊し、およそ百年後の元文二年再建補修されたものが現在の伽藍であるという。
大和古寺風物誌
(新字新仮名)
/
亀井勝一郎
(著)
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寛永二十一年十二月十六日
正保
(
しょうほう
)
と年号が改められたその翌年、会津の春は日ごとに色めいてきた三月十五日の昼、越後街道に現れたのは、生島慎九郎とその妻きいの両人であった。
討たせてやらぬ敵討
(新字新仮名)
/
長谷川伸
(著)
正保
(
しょうほう
)
二年、承応三年、寛文四年九月、延宝七年……と、ちょっと数えましても、実におびただしい御修覆の数々。ところで、そのいずれの場合にも、まずいちばん先に損じてお手入れの必要を
丹下左膳:03 日光の巻
(新字新仮名)
/
林不忘
(著)
ついで
正保
(
しょうほう
)
二年松向寺殿も御逝去遊ばされ、これより先き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて
珍重
(
ちんちょう
)
なされ候仙台中納言殿さえ、
少林城
(
わかばやしじょう
)
において御逝去なされ候。
興津弥五右衛門の遺書(初稿)
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
お
石
(
いし
)
が鈴木家へひきとられたのは
正保
(
しょうほう
)
三年の霜月のことであった。
日本婦道記:墨丸
(新字新仮名)
/
山本周五郎
(著)
次いで
正保
(
しょうほう
)
二年三斎公も御卒去遊ばされ候。これより
先
(
さ
)
き寛永十三年には、同じ香木の本末を分けて珍重なされ候仙台中納言殿さえ、
少林城
(
わかばやしじょう
)
において
御薨去
(
ごこうきょ
)
なされ
候
(
そろ
)
。
興津弥五右衛門の遺書
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
正保
(
しょうほう
)
四年
丁亥
(
ていがい
)
十二月
朔日
(
さくじつ
)
興津弥五右衛門の遺書
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
“正保”の意味
《固有名詞》
日本の元号の一つ。寛永の次で、慶安の前。1644年12月16日から1648年2月15日までの期間のこと。
(出典:Wiktionary)
正
常用漢字
小1
部首:⽌
5画
保
常用漢字
小5
部首:⼈
9画
“正保”で始まる語句
正保寺
正保寺町