“香(か)” の例文
其處(そこ)へ古(ふる)ちよツけた能代(のしろ)の膳(ぜん)。碗(わん)の塗(ぬり)も嬰兒(あかんぼ)が嘗(な)め剥(は)がしたか、と汚(きたな)らしいが、さすがに味噌汁(みそしる)の香(か)が、芬(ぷん)とすき腹(はら)をそゝつて香(にほ)ふ。
二た面 (旧字旧仮名) / 泉鏡花、泉鏡太郎(著)
だが、月の光は、星のまたたきは、田水(たみず)の、または根芹(ねぜり)のかおりは、土の香(か)は、青い鰌の精霊は、品の低いともがらにはすくえない。
フレップ・トリップ (新字新仮名) / 北原白秋(著)
この三本の松の下に、この灯籠を睨(にら)めて、この草の香(か)を臭(か)いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
草枕 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
女は庭の物の香(か)が自分の坐(すわ)っている所まで這入って来なくなったように思った。窓の所まで行って、その香(か)を吸い込みたいのである。
みれん (新字新仮名) / アルツール・シュニッツレル(著)
さも以(に)たり。近(ちか)づく儘(まゝ)に。馨(にほ)ふ香(か)は。そも時(かう)款貨舖(ぐや)の。娘(むすめ)かも。指(ゆび)に挾(はさ)める。香盆(かうばこ)の。何爲(なにこと)なりや。時々(とき/\)に。鼻(はな)に翳(かさ)して。嚊(か)くめるは。
「西周哲学著作集」序 (旧字旧仮名) / 井上哲次郎(著)
「ああ結構です」と臼井は香(か)のない茶に咽喉(のど)を湿(しめ)し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫(こねこ)のお話をしましょう」
鞄らしくない鞄 (新字新仮名) / 海野十三(著)
深閑(しんかん)として、生物(いきもの)といへば蟻(あり)一疋(ぴき)見出せないやうなところにも、何處(どこ)となく祭の名殘(なごり)を留(とゞ)めて、人の香(か)が漂(たゞよ)うてゐるやうであつた。
東光院 (旧字旧仮名) / 上司小剣(著)
譬えて申せば貴方が一杯の酒を呑乾(のみほ)しておしまいなさる時、その酒の香(か)がいつか何処(どこ)かであった嬉しさの香(におい)に似ていると思召(おぼしめ)すように
檜(ひのき)の香(か)のあたらしい浴室である。高いれんじ窓からたそがれのうす陽(び)が射(さ)しこんで、立ちのぼる湯気の中に数条(すうじょう)の縞(しま)を織り出している。
魔像:新版大岡政談 (新字新仮名) / 林不忘(著)
もう少しゆくと空地(あきち)があったから行こうと松次郎が言うので、ついて行って見るとそこには木の香(か)も新しい立派な家が立っていたりした。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
法海和尚は「今は老朽ちて、験(しるし)あるべくもおぼえ侍(はべ)らねど、君が家の災(わざわい)を黙(もだ)してやあらん」と云って芥子(けし)の香(か)のしみた袈裟(けさ)を執(と)りだして
蛇性の婬 :雷峰怪蹟 (新字新仮名) / 田中貢太郎(著)
源氏の服の薫香(くんこう)の香(か)がさっと立って、宮は様子をお悟りになった。驚きと恐れに宮は前へひれ伏しておしまいになったのである。
源氏物語:10 榊 (新字新仮名) / 紫式部(著)
語(ことば)はしばし絶えぬ。両人(ふたり)はうっとりとしてただ相笑(あいえ)めるのみ。梅の香(か)は細々(さいさい)として両人(ふたり)が火桶(ひおけ)を擁して相対(あいむか)えるあたりをめぐる。
小説 不如帰  (新字新仮名) / 徳冨蘆花(著)
以前の正月の祝賀の歌には、しばしば「古酒の香(か)」を悦(よろこ)ぶ文句があった。是を正月の楽しみの一つに、算(かぞ)えていたことだけは確かである。
木綿以前の事 (新字新仮名) / 柳田国男(著)
伊勢は戦(いくさ)といううわさだが、京都の空はのどかなものだ。公卿(くげ)屋敷の築地(ついじ)には、白梅(しらうめ)の香(か)がたかく、加茂川(かもがわ)の堤(つつみ)には、若草がもえている。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
此の大臣もまた「形美麗に有様いみじきこと限りなし」「大臣のおん形音(ごゑ)気はひ薫(たきもの)の香(か)よりはじめて世に似ずいみじきを云々」
少将滋幹の母 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
〔評〕或ひと岩倉公幕を佐くと讒(ざん)す。公薙髮(ていはつ)して岩倉邸に蟄居(ちつきよ)す。大橋愼藏(しんざう)、香(か)川敬(けい)三、玉松操(みさを)、北島秀朝(ひでとも)等、公の志を知り、深く結納(けつなふ)す。
そして彼女(かのじょ)は、花(はな)の香(か)をかいでいるうちに、ふと弟(おとうと)のことを思(おも)い出(だ)したのです。弟(おとうと)は外国(がいこく)へいって幾年(いくねん)にもなるが、消息(しょうそく)が絶(た)えていました。
ある冬の晩のこと (新字新仮名) / 小川未明(著)
都も鄙(ひな)も押並(おしな)べて黒きを被(き)る斯大なる哀(かなしみ)の夜に、余等は茫然(ぼうぜん)と東の方を眺めて立った。生温(なまあたた)かい夜風がそよぐ。稲の香(か)がする。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎、徳冨蘆花(著)
橘の姫は、津と和泉の人ととが相果てたほとりに、未だ化粧の香(か)を匂(にお)わせたまま頭を土手の方に向けてあえなくなっていた。
姫たちばな (新字新仮名) / 室生犀星(著)
段(きだ)また段と延びをり、とこしへに春ならしむる日輪にむかひて讚美の香(か)を放つ無窮の薔薇の黄なるところに 一二四—一二六
神曲:03 天堂 (旧字旧仮名) / アリギエリ・ダンテ(著)
この国の煙草(たばこ)の香(か)も病(やまひ)せぬ日にてありなば慕(ゆか)しくもあらまし、日本人の売子(うりこ)のそを勧め候(さふらふ)にも今はうるさくのみ思ひ申し候(さふらふ)。
巴里より (新字旧仮名) / 与謝野寛、与謝野晶子(著)
近頃(このごろ)新築したといふ立派な医院で、まだ木(き)の香(か)がぷんとしみた。細君は四十五六の善良さうな人で、たしか二度目だつた。
念仏の家 (新字旧仮名) / 小寺菊子(著)
露時雨(つゆしぐれ)夜ごとにしげくなり行くほどに落葉朽ち腐るる植込(うえごみ)のかげよりは絶えず土の香(か)薫(くん)じて、鶺鴒(せきれい)四十雀(しじゅうから)藪鶯(やぶうぐいす)なぞ小鳥の声は春にもまして賑(にぎわ)し。
矢はずぐさ (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
どうも余程(よっぽど)惚れてますよ、私が浮世の義理に一寸(ちょっと)逢って来ますから、あのなに、花(はな)の香(か)さん、若旦那をお連れ申しておくれ
伊豆行の汽船は相模灘(さがみなだ)を越して、明るい海岸へ着いた。旅客は争って艀に移った。お種も、湯(ゆ)の香(か)のする温泉地へ上った。
家:01 (上) (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
があり、子房の上は花筒(かとう)となり、この花筒の末端(まったん)に白色の六花蓋片(かがいへん)が平開(へいかい)し、花としての姿を見せよい香(か)を放っている。
植物知識 (新字新仮名) / 牧野富太郎(著)
水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の香(か)の行衛(ゆくえ)を説いたところで、役にも立たぬ詮議(せんぎ)というものだ。
太郎坊 (新字新仮名) / 幸田露伴(著)
枕頭(まくらもと)には、漆の剥げた盆に茶碗やら、薬瓶やら、流通の悪い空気が、薬の香(か)と古畳の香に湿つて、気持悪くムツとした。
鳥影 (新字旧仮名) / 石川啄木(著)
「森林の香(か)」とか、オリエンタル・ブウケエなどは、比較的男性向な表情をもつてゐる。リラなどは、極めて低く一般的意味で若き婦人向の表情だ。
夢からさめてしめやかな木犀(もくせい)の香(か)に頬(ほお)をうたれたような、初秋の冷やかさほどで、むしろ快感のある突はなし加減だ。
豊竹呂昇 (新字新仮名) / 長谷川時雨(著)
靜(しづ)かなよひで、どことはなしに青葉(は)の香(か)をにほはせたかぐはしい夜風(よかぜ)が庭(には)先から流(なが)れてくる。二人の間(あひだ)にはそのまま暫(しば)らく何(なん)の詞も交されなかつた。
夢 (旧字旧仮名) / 南部修太郎(著)
『否、小子(それがし)こと色に迷はず、香(か)にも醉はず、神(しん)以(もつ)て戀でもなく浮氣でもなし、只〻少しく心に誓ひし仔細の候へば』。
滝口入道 (旧字旧仮名) / 高山樗牛(著)
「勿体(もつたい)ないこつちや、勿体ないこつちや、これも将棋を指すおかげだす。」と言つたといふくらゐ、総檜木(ひのき)作りの木の香(か)も新しい立派な場所であつた。
聴雨 (新字旧仮名) / 織田作之助(著)
定らぬ燭の灯(あかり)に、送る主の影も、送られる客の影もゆらぐ。そういう夜気の中に漂(ただよ)う梅が香(か)を感ずるのは、電燈世界にはあるまじきほのかな趣である。
古句を観る (新字新仮名) / 柴田宵曲(著)
貴重な材木や硝子(ガラス)を使つて細工がしてある。その小さい中へ色々な物が逃げ込んで、そこを隠れ家(が)にしてゐる。その中から枯れ萎びた物の香(か)が立ち昇る。
クサンチス (新字旧仮名) / アルベール・サマン(著)
饂飩屋(うどんや)の横を、嘉三郎は、黙って奥へ這入(はい)って行った。庭に栗の木が一本あって、濡(ぬ)れ葉(ば)がばらばらと、顔に触れた。そして、栗の花の香(か)が鼻に泌(し)みた。
栗の花の咲くころ (新字新仮名) / 佐左木俊郎(著)
奥の座敷は香木の香(か)がみちみちてムッとする程あたたかかった。しかし未亡人は居なかったので私は何やら安心したようにホッとして程よい処に坐った。
あやかしの鼓 (新字新仮名) / 夢野久作(著)
女星の額の玉は紅(くれない)の光を射、男星のは水色の光を放てり。天津乙女(あまつおとめ)は恋の香(か)に酔いて力なく男星の肩に依(よ)れり。
星 (新字新仮名) / 国木田独歩(著)
僕は一寸立止ったが、「ドナウもこれぐらい細くなればもう沢山だ」と思った。そして其処の汀の草のうえに尻をついていると、幽かに水(みず)の香(か)がしている。
ドナウ源流行 (新字新仮名) / 斎藤茂吉(著)
階下(した)へ降りますと御飯から立つ湯気の香(か)が夜の家いつぱいに満ちて匂つて居ました。これは竹村(たけむら)と云ふ姉の家へ贈る弁当の焚出(たきだ)しをして居るからなのでした。
私の生ひ立ち (新字旧仮名) / 与謝野晶子(著)
お銀様は、その一茎の花を今度は自分の鼻頭(はなづら)へあてがって、菫(すみれ)の香(か)に酔うが如く、貪(むさぼ)り嗅ぐのでありました。
大菩薩峠:35 胆吹の巻 (新字新仮名) / 中里介山(著)
幹土に枯るる樹木も水の香(か)にあえば、忽(たちま)ち若樹(わかぎ)として再生するが如く、人はその体地の中に枯れその魂土に帰するも、一度神の霊の香に会わんか忽ち復生し
ヨブ記講演 (新字新仮名) / 内村鑑三(著)
櫻(さくら)の花(はな)に梅(うめ)が香(か)とめて柳(やなぎ)の枝(えだ)にさく姿(すがた)と、聞(き)くばかりも床(ゆか)しきを心(こヽろ)にくき獨(ひと)りずみの噂(うはさ)、たつ名(な)みやび男(を)の心(こヽろ)を動(うご)かして、山(やま)の井(ゐ)のみづに浮岩(あくが)るヽ戀(こひ)もありけり
暁月夜 (旧字旧仮名) / 樋口一葉(著)
己はこれを眺めながら、あさまつげの苦味のある香(か)と、柑子(かうじ)の木の砂糖のやうに甘い匂とを吸つてゐた。
復讐 (新字旧仮名) / アンリ・ド・レニエ(著)
桟橋(さんばし)は即(すなわ)ち魚市場の荷上所で、魚形水雷みたいな鰹(かつお)だとか、腸(はらわた)の飛び出した、腐りかかった鮫(さめ)だとかが、ゴロゴロと転(ころが)り、磯の香(か)と腐肉の臭(におい)がムッと鼻をついた。
孤島の鬼 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
夜風が通る度に、頭から浴びせられた酒が肌であつたまつて、異樣な香(か)を立てるのが強く鼻をついた。
大阪の宿 (旧字旧仮名) / 水上滝太郎(著)
倉庫の蔭を曲ると、乳色の海霧(ガス)が、磯の香(か)を乗せて激しく吹きつけて来た。男はなおも歩き続けた。
動かぬ鯨群 (新字新仮名) / 大阪圭吉(著)
垣の中に簇(むらが)った松は疎(まば)らに空を透かせながら、かすかに脂(やに)の香(か)を放っている。保吉は頭を垂れたまま、そう云う静かさにも頓着(とんじゃく)せず、ぶらぶら海の方へ歩いて行った。
文章 (新字新仮名) / 芥川竜之介(著)
むこうは水神(すいじん)の森。波止めの杭に柳がなびき、ちょうど上汐(あげしお)で、川風にうっすら潮の香(か)がまじる。