板塀いたべい)” の例文
「……やっぱり闇料理屋だったのか、そうだろうな」信三は眼をあげた、話しごえはすぐ向こうにある板塀いたべいの中から聞こえるのだった。
四年間 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
彼はポケットの中から、新館の煙筒から取ってきたブリュジョンの綱の切れを引き出して、それを板塀いたべいの囲いの中に投げおろした。
とうとう車道から人道へ乗り上げそれでも止まらないで板塀いたべいへぶつかって逆戻をする事一間半、危くも巡査を去る三尺の距離でとまった。
自転車日記 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
その家というのもほんの名ばかりのような小屋から、もと私達の住んでいた母屋おもやとその庭は、高い板塀いたべいさえぎられて殆ど何も見えなかった。
幼年時代 (新字新仮名) / 堀辰雄(著)
「松の枝は折れて、板塀いたべいの上にも泥が附いてゐる。曲者はあの松を傳はつて、隣り屋敷の空地から忍び込んだに相違あるまい」
荒れ果てた家でどの硝子ガラスにも細いテープでつぎたしてあつた。夜来の雨で洗はれた矢竹が、はうきのやうに、こはれた板塀いたべいもたれかゝつてゐる。
浮雲 (新字旧仮名) / 林芙美子(著)
格子から予がのぞくとたんに、板塀いたべいに取り付けてある郵便受け箱にカサリという音がした。予は早くも郵便を配達して来たのじゃなと気づく。
水籠 (新字新仮名) / 伊藤左千夫(著)
ホールの庭にはきりの木がえ、落葉が地面に散らばつて居た。その板塀いたべいで囲まれた庭の彼方かなた、倉庫の並ぶ空地あきちの前を、黒い人影が通つて行く。
田舎の時計他十二篇 (新字旧仮名) / 萩原朔太郎(著)
さいはひ美吉屋みよしやの家には、ひつじさるすみ離座敷はなれざしきがある。周囲まはり小庭こにはになつてゐて、母屋おもやとの間には、小さい戸口の附いた板塀いたべいがある。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
さして立去たりあとに殘りし男はなほ内の樣子をうかゞひ居る故旅僧たびそうは見付られなば殺されもやせんといきこらへて車のかげかゞみ居る中此方の板塀いたべいの戸を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
妙にぐしゃぐしゃという音をたてて口の中をあわだらけにして、そうしてあの板塀いたべいや下見などに塗る渋のような臭気を部屋へやじゅうに発散しながら
自由画稿 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
かたへ、煉瓦塀れんぐわべい板塀いたべいつゞきのほそみちとほる、とやがて會場くわいぢやうあたいへ生垣いけがきで、其處そこつの外圍そとがこひ三方さんぱうわかれて三辻みつつじる……曲角まがりかど窪地くぼち
人魚の祠 (旧字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
その一つからは、小高い石垣いしがき板塀いたべいとを境に、北隣の家の茶の間の白い小障子まで見える。三郎はよくその窓へ行った。
(新字新仮名) / 島崎藤村(著)
金網の垣根かきねとは違う別の板塀いたべいで、全くのぞかれないように囲ってあるけれども、距離的には一番裏の家に近いので、もとシュトルツ一家がいた頃には
細雪:02 中巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
其は他の下級将校官舎の如く、板塀いたべいに囲われた見すぼらしい板葺いたぶきの家で、かきの内には柳が一本長々とえだれて居た。
みみずのたはこと (新字新仮名) / 徳冨健次郎徳冨蘆花(著)
と云いながら、お庭をぶら/″\歩いていると、板塀いたべいの三じゃくひらきがバタリ/\と風にあおられているのを見て
小さい前栽せんざいと玄関口の方の庭とを仕切った板塀いたべいの上越しに人の帰るのを見ると、蝙蝠傘こうもりがさかざして新しい麦藁むぎわら帽子をかぶり、薄い鼠色ねずみいろのセルの夏外套なつがいとうを着た後姿が
狂乱 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
近所の板塀いたべいやいけがきには、麦わらが立てかけてほしてある。めんどりが鶏小舎とりごやでひくく鳴いている。村ははしからはしまで静かだ。そこで正九郎は何もすることがない。
空気ポンプ (新字新仮名) / 新美南吉(著)
出入りの八百屋の御用聞ごようき春公はるこうと、うち仲働なかばたらきたまと云うのが何時いつか知ら密通みっつうして居て、或夜あるよ、衣類を脊負せおい、男女手を取って、裏門の板塀いたべいを越して馳落かけおちしようとした処を
(新字新仮名) / 永井荷風(著)
ふと物のれる音がして、柘榴ざくろの枝葉のしげっている地境の板塀いたべいのうえに、隣家の人の顔が一つ見え二つ見えして来た。そこからは庸三の坐っている部屋のなかも丸見えであった。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
そのうちに、あっ、というゆうちゃんのこえがしたかとおもうと、たまはねらいをはずれて、ドシンとおおきなおとをして、板塀いたべいにうちあたったのです。二人ふたりは、いっしょにくびをすくめました。
日の当たる門 (新字新仮名) / 小川未明(著)
「あッ、あそこの板塀いたべいが……」板塀に、今しもポカリと穴が明いている。フットボールぐらいの大きさだ。その穴が、どうしたというのだろう、見る見るうちに大きく拡がってゆくのである。
○○獣 (新字新仮名) / 海野十三(著)
黒い板塀いたべいまわりを巡ってみると、十年もあるじがいなかった甲賀宗家そうけ。この附近の墨屋敷の中では、最も宏壮な構えだが、広いだけに荒れ方も甚だしく、雑草離々りりとして古社ふるやしろででもあるようなすがただ。
鳴門秘帖:02 江戸の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それがたとえ板塀いたべいの中であったり、他の家の裏側に向かい合っていたりして、当人たちはどこからも見えぬつもりで、まさかそんな遠くの山の上から望遠鏡で覗かれていようとは気づくはずもなく
鏡地獄 (新字新仮名) / 江戸川乱歩(著)
家の黒い板塀いたべいが見えた。
薄明 (新字新仮名) / 太宰治(著)
廊下のほうの障子をあければ、廻り縁の向うに狭い中庭の植込があり、その先には、やはり同じような茶屋の板塀いたべいが立っていた。
雪と泥 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
見覚えある板塀いたべいのあたりに来て、日のややくれかかる時、老夫おじはわれをいだおろして、溝のふちに立たせ、ほくほくうちゑみつゝ、慇懃いんぎん会釈えしやくしたり。
竜潭譚 (新字旧仮名) / 泉鏡花(著)
彼は静かに板塀いたべいの戸を少し開いて、街路にはだれもいないのを見定め、用心してぬけ出し、後ろに戸を引きしめ、バスティーユの方へ駆けて行った。
そう云う同じ間取りの家が右にも左にも並んでいたので、二階に上ると、板塀いたべいの忍び返しの向うに、隣りの家の中庭が見え、離れ座敷の縁側が見えた。
蓼喰う虫 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
平次は併しそれに見向きもせず、門から出ると、いきなり生垣の向う、板塀いたべいめぐらした隣の家へやつて行きました。
その室にすわっていると、庭に植えた松の枝と、手斧目ちょうなめの付いた板塀いたべいの上の方と、それから忍び返しが見えた。
彼岸過迄 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
このあいだじゅう板塀いたべいの土台を塗るために使った防腐塗料をバケツに入れたのが物置きの窓の下においてあった。その中に子猫を取り落としたものと思われた。
子猫 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
さてこの世辞屋せじや角店かどみせにして横手よこてはう板塀いたべいいたし、赤松あかまつのヒヨロに紅葉もみぢ植込うゑこみ、石燈籠いしどうろうあたまが少し見えるとこしらへにして、其此方そのこなた暖簾のれんこれくゞつてなか這入はいると
世辞屋 (新字旧仮名) / 三遊亭円朝(著)
そこには立派な門松かどまつが立ててあり、門の片方の柱には、味噌みそたまりと大きく書かれた木のふだがかかっていた。黒い板塀いたべいで囲まれた屋敷は広くて、倉のようなものが三つもあった。
最後の胡弓弾き (新字新仮名) / 新美南吉(著)
赤くつた板塀いたべいに沿うて、妙見寺めうけんじの門前に葭簀よしずを張つた休茶屋やすみぢやゝへと、蘿月らげつさきこしおろした。
すみだ川 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
心の中に小躍こおどりしながら、そこの廻り角のところでどっちに行くであろうかと、ほかに人通りのない寂しい裏町なのでこちらの板塀いたべいかげにそっと身を忍ばせて、待っていると
霜凍る宵 (新字新仮名) / 近松秋江(著)
二階は板戸が締まっていて、電燈の明りも差していなかったが、すぐ板塀いたべいの内にある下の六畳から、母と何か話している彼女の声が洩れた。庸三はほっとした気持で格子戸こうしどを開けた。
仮装人物 (新字新仮名) / 徳田秋声(著)
食堂を出て動坂どうざかの講談社に行く。おんぼろぼろの板塀いたべいのなかにひしめく人の群をみていると、妙にはいりそびれてしまう。講談社と云うところはのみの巣のようだと思う。文明も何もない。
新版 放浪記 (新字新仮名) / 林芙美子(著)
がんの身体は、まるで目に見えない板塀いたべいに突き当ったように、急に後へ突き戻された。とたんに彼は両手をあげて、自分の頸をおさえた。が、そのとき、彼の肩の上には、もはや首がなかった。
鬼仏洞事件 (新字新仮名) / 海野十三(著)
表口おもてぐちの内側にゐた菊地鉄平は、美吉屋の女房小供や奉公人の退いたあとしばらく待つてゐたが、板塀いたべいの戸口で手間の取れる様子を見て、鍵形かぎがたになつてゐる表の庭を、縁側のすみに附いて廻つて
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
板塀いたべい越しに屋敷の外で聞いた井戸の水みの音まで威勢が好かった。
桜の実の熟する時 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
つき夫に付て種々いろ/\談話度事はなしたきことあるにより御迎へ申したり今は間合まあひも惡ければ何卒なにとぞあすの夜此處まで忍び來り給へ緩々ゆる/\とおはなし申さんと呉々くれ/″\も吉三郎に約束やくそくなして歸しけるさて翌日よくじつの夜吉三郎は彼の板塀いたべいの處へ來りしに内よりお竹出迎いでむかへて吉三郎が手を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
南西へひらけた千坪ばかりの広さで、周囲に高い生垣をまわし、表側だけは黒く塗った板塀いたべいで、あまり大きくはないが両開きの門が付いていた。
追いついた夢 (新字新仮名) / 山本周五郎(著)
ハタと板塀いたべい突当つきあたつたやうに、棒立ぼうだちにつてたが、唐突だしぬけに、片手かたててのひらけて、ぬい、と渠等かれらまへ突出つきだした。
神鑿 (新字旧仮名) / 泉鏡花泉鏡太郎(著)
ちょっと妾宅しょうたくと云った風の、見越しの松に板塀いたべいの小ざっぱりした造りの二階家が三四軒並んでいるうちの一軒で
細雪:03 下巻 (新字新仮名) / 谷崎潤一郎(著)
夜中郵便やちゅうゆうびんと書いて板塀いたべいに穴があいているところを見ると夜はしまりをするらしい。正面に芝生しばふ土饅頭どまんじゅうに盛り上げていちさえぎるみどりからかさと張る松をかたのごとく植える。
虞美人草 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
西ごうたかもりはその声に応じて板塀いたべいの下をくぐり、紫苑しおんをかきわけて姿すがたをあらわしました。
決闘 (新字新仮名) / 新美南吉(著)
寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀いたべいにたどりつき、闇夜の空におぼろな多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
柿の種 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
真直まっすぐ往来おうらいの両側には、意気な格子戸こうしど板塀いたべいつづき、すりがらすの軒燈けんとうさてはまた霜よけした松の枝越し、二階の欄干てすり黄八丈きはちじょう手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかたをかさねた褞袍どてらを干した家もある。
深川の唄 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ガヴローシュは彼らの話の間、板塀いたべいの標石の一つに腰掛けて、しばらくじっとしていた。おそらく親父おやじがふり向いてくれるのを待っていたのであろう。それから彼はくつをはいて言った。