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碧梧桐
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へきごとう
ふりがな文庫
“
碧梧桐
(
へきごとう
)” の例文
美女桜、ロベリヤ、松葉菊及び
樺
(
かば
)
色の草花、これは先日
碧梧桐
(
へきごとう
)
の持つて来てくれた盆栽で、今は床の間の前に
并
(
なら
)
べて置かれてある。
病牀六尺
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
明治二十八年八月 下戸塚、
古白旧廬
(
こはくきゅうろ
)
に移る。一日、
鳴雪
(
めいせつ
)
、五城、
碧梧桐
(
へきごとう
)
、森々招集、運座を開く。
五百句
(新字旧仮名)
/
高浜虚子
(著)
といふ句を
碧梧桐
(
へきごとう
)
が評したる末に「かつ
茂山
(
もざん
)
をシゲヤマと読ますこと如何にも窮せずや」とあり。されどこは
杜撰
(
ずさん
)
なる評なり。
病牀六尺
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
これは
碧梧桐
(
へきごとう
)
が常に新を欲して踏み迷うた感があるのを残念に思って言った言葉である。何か新しい事をしようとしてむやみに足を
埒外
(
らちがい
)
に踏み出すのは危険なことである。
俳句への道
(新字新仮名)
/
高浜虚子
(著)
我旧師
河東静渓
(
かわひがしせいけい
)
先生に五子あり。黄塔はその第三子なり。出でて竹村氏を
嗣
(
つ
)
ぐ。第四子は
可全
(
かぜん
)
。第五子は
碧梧桐
(
へきごとう
)
。黄塔三子あり皆幼。(二月七日)
墨汁一滴
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
▼ もっと見る
この時
虚子
(
きょし
)
が来てくれてその後
碧梧桐
(
へきごとう
)
も来てくれて看護の手は充分に届いたのであるが、余は非常な衰弱で一杯の牛乳も一杯のソップも飲む事が出来なんだ。
くだもの
(新字新仮名)
/
正岡子規
(著)
独り洋装したるは
碧梧桐
(
へきごとう
)
氏にして眼鏡の裏に
黒眸
(
こくぼう
)
を輝かせり。他の諸氏の皆年若なるには一驚を喫したり。
墨汁一滴
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
といふ句があるのを
碧梧桐
(
へきごとう
)
が賞讃して居つた。そこで余がこれをつくづくと見ると非常に不審な点が多い。
病牀六尺
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
附けていふ、
碧梧桐
(
へきごとう
)
近時
召波
(
しょうは
)
の句を読んで三歎す。余もいまだ十分の研究を得ざれども召波の句の趣向と言葉と共にはたらき居る事
太祇
(
たいぎ
)
蕪村
(
ぶそん
)
几董
(
きとう
)
にも勝るかと思ふ。
墨汁一滴
(新字旧仮名)
/
正岡子規
(著)
やがて虚子が京都から来る、叔父が国から来る、
危篤
(
きとく
)
の電報に接して母と
碧梧桐
(
へきごとう
)
とが東京から来る、という騒ぎになった。これが自分の病気のそもそもの発端である。
病
(新字新仮名)
/
正岡子規
(著)
乱れ髪を風に吹かせながら月を
眺
(
なが
)
めて居たというような、
凄
(
すご
)
い趣向を考えたかもしれぬが、判者が
碧梧桐
(
へきごとう
)
というのだから先ず空想を
斥
(
しりぞ
)
けて、なるべく写実にやろうと考えた。
句合の月
(新字新仮名)
/
正岡子規
(著)
昨夜も大勢来て居った友人(
碧梧桐
(
へきごとう
)
、
鼠骨
(
そこつ
)
、
左千夫
(
さちお
)
、
秀真
(
ほつま
)
、
節
(
たかし
)
)は帰ってしもうて余らの眠りに
就
(
つい
)
たのは一時頃であったが、今朝起きて見ると、足の動かぬ事は前日と同しであるが
九月十四日の朝
(新字新仮名)
/
正岡子規
(著)
“碧梧桐(
河東碧梧桐
)”の解説
河東 碧梧桐(かわひがし へきごとう、1873年(明治6年)2月26日 - 1937年(昭和12年)2月1日)は、日本の俳人・随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。
正岡子規の高弟として高浜虚子と並び称され、俳句革新運動の代表的人物として知られる。
愛媛県松山市に松山藩士の五男として生まれる。父は正岡子規の漢学の師。高浜虚子とは中学時に同級であり、後に子規の門下生となるまで、行動をともにした仲の良い友人であった。
(出典:Wikipedia)
碧
漢検準1級
部首:⽯
14画
梧
漢検準1級
部首:⽊
11画
桐
漢検準1級
部首:⽊
10画
“碧梧”で始まる語句
碧梧