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法勝寺
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ほっしょうじ
ふりがな文庫
“
法勝寺
(
ほっしょうじ
)” の例文
小宰相十六歳の時のこと、上西門院が
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
へ花見にお出でになった。この時、
中宮亮
(
ちゅうぐうのすけ
)
で供奉したのが、通盛である。
現代語訳 平家物語:09 第九巻
(新字新仮名)
/
作者不詳
(著)
鹿
(
しし
)
ヶ
谷
(
たに
)
の
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
は、月に幾日かは、必ず法話や専修念仏の
衆会
(
しゅうえ
)
が催されるのに、この
十一月
(
しもつき
)
から
師走
(
しわす
)
になってからは
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
しかし高平太は
憎
(
にく
)
むばかりか、内心おれを恐れている。おれは
前
(
さき
)
の
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
執行
(
しゅぎょう
)
じゃ。
兵仗
(
へいじょう
)
の道は知る筈がない。が、天下は思いのほか、おれの議論に応ずるかも知れぬ。
俊寛
(新字新仮名)
/
芥川竜之介
(著)
有王 わしは
都
(
みやこ
)
から来た者だが、(俊寛、都と聞いて驚いて有王を見る)この島に
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
執行
(
しゅぎょう
)
俊寛
僧都
(
そうず
)
と申す方が十年前よりお渡りになっているはずだが、もしやご存じあるまいか。
俊寛
(新字新仮名)
/
倉田百三
(著)
雑賀隼人の手勢は、五月十一日のあけがた、
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
円観上人
(
えんかんしょうにん
)
を引ッ
縛
(
くく
)
って、獄へ持ち込み、南条左衛門は、
東寺
(
とうじ
)
を襲って、
文観僧正
(
もんかんそうじょう
)
を、捕縛して来た。
私本太平記:03 みなかみ帖
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
▼ もっと見る
「もしや、このあたりに都から流された
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
執行
(
しゅぎょう
)
、俊寛僧都のお行方、ご存じありませぬか?」
現代語訳 平家物語:03 第三巻
(新字新仮名)
/
作者不詳
(著)
この峰の中腹には、その当時、
住蓮山
(
じゅうれんざん
)
安楽寺といって——以前は
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
ともいった一院があって、そこを山荘として住んでいたのが、例の、
俊寛僧都
(
しゅんかんそうず
)
であったのだ。
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
その皇子たちの中でも四位の宮は、清盛の奥方の兄、
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
執行能円
(
しゅぎょうのうえん
)
法印の
養君
(
やしないぎみ
)
となっていたが、平家の都落ちで法印は西国に、彼の妻とこの四の宮を残して行ってしまった。
現代語訳 平家物語:08 第八巻
(新字新仮名)
/
作者不詳
(著)
「——
近江
(
おうみの
)
中将
蓮浄
(
れんじょう
)
どの、
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の
執行
(
しゅぎょう
)
俊寛僧都
(
しゅんかんそうず
)
、
山城守基兼
(
やましろのかみもとかね
)
どの、
式部大輔正綱
(
しきぶだいふまさつな
)
どの、
平判官康頼
(
へいほうがんやすより
)
どの、また、
新判官資行
(
しんほうがんすけゆき
)
どのを始めとして、かく申す
右衛門尉
(
うえもんのじょう
)
、ならびに、
蔵人行綱
(
くろうどゆきつな
)
」
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
法勝寺
(
ほっしょうじ
)
の僧俊寛の山荘で、法皇の近臣たちが、平家てんぷくを策した世にいう“鹿ヶ谷会議”なるものが行われ、密告者のため、死罪、
遠流
(
おんる
)
、追放などの犠牲者をちまたに見たのもこの年でした。
随筆 新平家
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
“法勝寺”の解説
法勝寺(ほっしょうじ)は、平安時代から室町時代まで平安京の東郊、白河にあった仏教の寺院である。白河天皇が1076年(承保3年)に建立した。院政期に造られた六勝寺の一つで、六つのうち最初にして最大の寺である。皇室から厚く保護されたが、応仁の乱以後は衰微廃絶した。
(出典:Wikipedia)
法
常用漢字
小4
部首:⽔
8画
勝
常用漢字
小3
部首:⼒
12画
寺
常用漢字
小2
部首:⼨
6画
“法勝寺”で始まる語句
法勝寺執行
法勝寺行幸
法勝寺執行俊寛
法勝寺執行能円