嵩山すうざん)” の例文
雷薄らいはく陳闌ちんらんなどという大将も、これでは行く末が思いやられると、嵩山すうざんへ身をかくしてしまうし、加うるに、近年の水害で、国政はまったく行き詰まってしまった。
三国志:05 臣道の巻 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
劉根りゅうこんあざな君安くんあんといい、長安ちょうあんの人である。漢の成帝せいていのときに嵩山すうざんに入って異人に仙術を伝えられ、遂にその秘訣を得て、心のままに鬼を使うことが出来るようになった。
もと生田氏、周防国玖珂郡くがごほり通津浦つづうらの人である。明の遺民戴笠たいりつあざな曼公まんこうが国を去つて長崎に来り、後暫く岩国に寓した時、錦橋の曾祖父嵩山すうざんが笠を師として痘科を受けた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
星占書に天鶏星動けば必ず赦ありと見えるからの事だと述べ、また万歳元年嵩山すうざんに封じた時、大檞樹杪に金鶏を置いた由を記す。しかし支那に諫鼓また屈鼓が実在した証は外国人の紀行に存す。
又范蜀公と一緒に嵩山すうざんを尋ねたとき、各〻茶を携えて行った。温公は茶を紙袋に入れて居たが、蜀公は小さな木の盒を持参した。温公はそれを見て驚いて曰わく、君はお茶道具を持って居るのか、と。
洪川禅師のことども (新字新仮名) / 鈴木大拙(著)
戴曼公はまた痘科を池田嵩山すうざんに授けた。嵩山の曾孫が錦橋きんきょう、錦橋のてつが京水、京水の子が瑞長である。これが池田氏のたまたま獲た曼公の遺品を愛重あいちょうしてかなかった所以である。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
曼公が周防国すおうのくに岩国いわくにに足を留めていた時、池田嵩山すうざんというものが治痘の法を受けた。嵩山は吉川きっかわ家の医官で、名を正直せいちょくという。先祖せんそ蒲冠者かばのかんじゃ範頼のりよりから出て、世々よよ出雲いずもにおり、生田いくた氏を称した。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
書上に詮応を「叔父」と称してある。系図錦橋本に従へば、詮応は嵩山すうざんの孫である。京水本に従へば信重のぢよ溝挾みぞはさ氏室に瀬兵衛某と信之のぶゆきとの二子があり、信之に信吉のぶよしと詮応との二子があつた。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)