げん、天皇後醍醐のおのひとの父であり、天皇の御信任はもちろんのこと、いわゆる“重臣の三ぼう”(北畠親房きたばたけちかふさ万里小路宣房までのこうじのぶふさ、吉田定房)
私本太平記:03 みなかみ帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
で、そのような危険な旅へ、好んでお出かけなさるよりも、ここに止まりなさりませ。私ことは土地の豪族で、先祖は北畠親房きたばたけちかふさで、名家の末にござります。
血ぬられた懐刀 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
雅家まさいえ北畠きたばたけと号す——北畠親房きたばたけちかふさその子顕家あきいえ顕信あきのぶ顕能あきよしの三子と共に南朝なんちょう無二の忠臣ちゅうしん楠公なんこう父子と比肩ひけんすべきもの、神皇正統記じんのうしょうとうきあらわして皇国こうこくの正統をあきらかにす
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
武家嫌ひの北畠親房きたばたけちかふささへ、これを認めてゐるくらゐだが、朝廷に対する尊崇の念を多少とも有してゐた彼が、日本の国体とは相容れざる武家政治を開始したことは、百世の下
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
尊良親王・宗良親王・懐良やすなが親王・北畠親房きたばたけちかふさ・北畠顕家あきいえみなそうであった。だから京都の第宅ていたくに遊園を愉しむ生活に比べれば、すこぶる荒涼として、艱難かんなん辛苦のさまは想像に余りがある。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
その内容は北畠親房きたばたけちかふさなどと同じような正直・慈悲の政治理想を説いたものである。
はるか吉野にある大塔ノ宮や、正成の手にかくれている四条隆資しじょうたかすけや、居所不明の北畠親房きたばたけちかふさなどから、播磨の大山だいせん、伯耆の大山の二つを通して“お味方”をすすめてきた。
私本太平記:06 八荒帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
北畠親房きたばたけちかふさもその神皇正統記じんわうしやうとうきに於て、乱国の始めだと云つて慨嘆してゐる如く、当時に於ける国家の大患であり、武士がその勢力を獲たのも、荘園が、その根拠を与へたからである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
御輿みこしの御後に供奉ぐぶする人はあれは北畠親房きたばたけちかふさじゃ」
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
天皇は、後の三房と云はれた万里小路宣房までのこうぢのぶふさ、吉田定房、北畠親房きたばたけちかふさの三名臣を初め、日野資朝ひのすけとも、日野俊基としもと等の英才を起用せられ、鋭意諸政を改め給うたので、中興の気運勃々たるものがあつた。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
北畠親房きたばたけちかふさを知ってるか」
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)