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僦居
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しゅうきょ
ふりがな文庫
“
僦居
(
しゅうきょ
)” の例文
三世勝三郎が鎌倉に
病臥
(
びょうが
)
しているので、勝久は勝秀、勝きみと共に、二月二十五日に見舞いに往った。
僦居
(
しゅうきょ
)
は
海光山
(
かいこうざん
)
長谷寺
(
ちょうこくじ
)
の座敷である。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
それより一年ほど星巌は
八丁堀
(
はっちょうぼり
)
に
僦居
(
しゅうきょ
)
していたが火災に
遇
(
あ
)
い、遂に地を神田お玉ヶ池に相して新に家を築き、天保五年十一月某日に移り住したのである。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
六月下旬の或日、めずらしく晴れた梅雨の空には、風も凉しく吹き通っていたのを
幸
(
さいわい
)
、わたしは唖々子の病を東大久保
西向天神
(
にしむきてんじん
)
の傍なるその
僦居
(
しゅうきょ
)
に問うた。
梅雨晴
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
しかし他家に仕えようという念もなく、
商估
(
しょうこ
)
の
業
(
わざ
)
をも好まぬので、家の
菩提所
(
ぼだいしょ
)
なる本所
中
(
なか
)
の
郷
(
ごう
)
の
普賢寺
(
ふけんじ
)
の一房に
僦居
(
しゅうきょ
)
し、日ごとに
街
(
ちまた
)
に
出
(
い
)
でて謡を歌って銭を
乞
(
こ
)
うた。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
弘庵は弘化四年土浦の藩校を去り江戸に帰って日本橋
槙町
(
まきちょう
)
に
僦居
(
しゅうきょ
)
し翌年麹町平川町に移りまたその翌年下谷
三味線堀
(
しゃみせんぼり
)
に転じ家塾を開いてこれを
彀塾
(
こうじゅく
)
と称した。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
▼ もっと見る
二月十日に渋江氏は当時の第六
大区
(
だいく
)
六小区本所
相生町
(
あいおいちょう
)
四丁目に
僦居
(
しゅうきょ
)
した。五百が五十八歳、保が十七歳の時である。家族は初め母子の外に
水木
(
みき
)
がいたばかりであるが、
後
(
のち
)
には山田脩が来て同居した。
渋江抽斎
(新字新仮名)
/
森鴎外
(著)
新坂にはわが稚き頃大学総長浜尾氏の
邸
(
やしき
)
、音楽学校長伊沢氏の邸、
尾崎咢堂
(
おざきがくどう
)
が
僦居
(
しゅうきょ
)
、
門墻
(
もんしょう
)
を連ね庭樹の枝を交へたり。この坂車を通ぜざりしが今はいかがにや。
礫川徜徉記
(新字旧仮名)
/
永井荷風
(著)
家貧きが上に幼時
怙恃
(
こじ
)
を失い諸方に流浪し、山本緑陰の家に食客となること三年。上野寛永寺に入って独学し、文政年間始めて駒込に
僦居
(
しゅうきょ
)
し
帷
(
い
)
を
下
(
くだ
)
して徒に授けた。
下谷叢話
(新字新仮名)
/
永井荷風
(著)
大正七年の暮われ先考の旧居を人に譲り琴書を築地の
僦居
(
しゅうきょ
)
に移せし時、しんは年漸く老い、両眼既におぼろになりしかば、その
忰
(
せがれ
)
の既に家を成して
牛込築土
(
うしごめつくど
)
に住みたりしをたより
礫川徜徉記
(新字旧仮名)
/
永井荷風
(著)
僦
部首:⼈
14画
居
常用漢字
小5
部首:⼫
8画
“僦”で始まる語句
僦