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伝教大師
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でんぎょうだいし
ふりがな文庫
“
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)” の例文
「彼は、叡山の山領を、
恣
(
ほしいまま
)
に
削
(
けず
)
った。——
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
このかた、
不可侵境
(
ふかしんきょう
)
の山則を、またわれわれの体面を、
辱
(
はずかし
)
め踏みにじった!」
新書太閤記:04 第四分冊
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
定雄は歩きながらも、
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
が都に近いこの地に本拠を定めて高野山の
弘法
(
こうぼう
)
と対立したのは、伝教の負けだとふと思った。
比叡
(新字新仮名)
/
横光利一
(著)
二百の谷々を
埋
(
うず
)
め、三百の
神輿
(
みこし
)
を埋め、三千の悪僧を埋めて、なお余りある葉裏に、
三藐三菩提
(
さまくさぼだい
)
の仏達を埋め尽くして、
森々
(
しんしん
)
と半空に
聳
(
そび
)
ゆるは、
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
以来の杉である。
虞美人草
(新字新仮名)
/
夏目漱石
(著)
『嬉遊笑覧』に『遠碧軒随筆』を引いて、庚申の三猿はもと天台大師三大部の中、
止観
(
しかん
)
の空仮中の三諦を、
不見
(
みざる
)
、
不聴
(
きかざる
)
、
不言
(
いわざる
)
に比したるを猿に表して
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
三猿を
創
(
はじ
)
めたという。
十二支考:07 猴に関する伝説
(新字新仮名)
/
南方熊楠
(著)
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
の御再来ではございませんかといって、この弁信を伏し拝んだ光景が、はっきりと私の頭にうつりましたから、私は驚いてしまって、その人の手を取って起き上らせ、
勿体
(
もったい
)
ない
大菩薩峠:29 年魚市の巻
(新字新仮名)
/
中里介山
(著)
▼ もっと見る
叡山の
根本中堂
(
こんぽんちゅうどう
)
の前にその木があるという。鶴見はまだ見ないが、
泡鳴
(
ほうめい
)
がそれについて一度語ったことを覚えている。
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
の時代まで
遡
(
さかのぼ
)
るとすれば、その渡来も随分古いものである。
夢は呼び交す:――黙子覚書――
(新字新仮名)
/
蒲原有明
(著)
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
が、叡山をひらき、あまねく日本の仏界を照らした光は、もう油がきれてしまったのでしょう、現状の叡山は、もはや、われわれ
真摯
(
しんし
)
な者にとっては、立命の地でもなし
親鸞
(新字新仮名)
/
吉川英治
(著)
「
開基
(
かいき
)
かい。開基は
伝教大師
(
でんぎょうだいし
)
さ」
虞美人草
(新字新仮名)
/
夏目漱石
(著)
“伝教大師(
最澄
)”の解説
最澄(さいちょう、766年〈天平神護2年〉もしくは767年〈神護景雲元年〉 - 822年〈弘仁13年〉)は、平安時代初期の日本の仏教僧。日本の天台宗の開祖であり、伝教大師(でんぎょうだいし)として広く知られる。近江国(現在の滋賀県)滋賀郡古市郷(現:大津市)もしくは生源寺(現:大津市坂本)の地に生れ、俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)。唐に渡って仏教を学び、帰国後、比叡山延暦寺を建てて日本における天台宗を開いた。
(出典:Wikipedia)
伝
常用漢字
小4
部首:⼈
6画
教
常用漢字
小2
部首:⽁
11画
大
常用漢字
小1
部首:⼤
3画
師
常用漢字
小5
部首:⼱
10画
“伝教”で始まる語句
伝教