高徳たかのり)” の例文
「足利殿でおわするか。それがしは備後の住人、児島三郎高徳たかのりと申し、副将として、千種どのをたすけ、目下、男山の陣に在る者にござりまする」
私本太平記:08 新田帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
近日、正三位源公、七生滅賊の四大字を以て賜わり、かつその世子の詩数章を伝え、高徳たかのりを望み、博浪の鉄椎を望む、その意甚だ切なり。児に死せざるべけんや。
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
また阿弥陀の駅で立派な建石に、『前備中守護児島範長公碑』と記してあって、かの備後三郎高徳たかのりの父であるから、さてはここらで戦死したのであったかなどと思いつつ見て過ぎた。
鳴雪自叙伝 (新字新仮名) / 内藤鳴雪(著)
児島高徳たかのりの桜の落書と云い、『太平記』にも大衆文芸の要素があるのだ。
四条畷の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
院ノ庄の行宮あんぐうへ忍んで有名な——天勾践テンコウセンムナシュウスルナカレ——を桜の木に書いて去ったと伝えられる児島高徳たかのり(備後ノ三郎)は、どうもむずかしいまぼろしの人物なので
随筆 私本太平記 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「幕府より何程逆燄ぎゃくえんを奪い悖逆はいぎゃくの処置ありとも、御頓着とんちゃくなく後鳥羽ごとば後醍醐ごだいご両天皇を目的として、御覚悟定められば、正成まさしげ義貞よしさだ高徳たかのり武重たけしげの如き者累々継出つぎいでんは必然なり」
吉田松陰 (新字新仮名) / 徳富蘇峰(著)
かねてからの申し合せにより、彼が首尾をつたえて、大覚ノ宮や父重明とともに「すぐつべし」と、うながしに来た人——これがその当面の人なのであろう。児島こじま備後ノ三郎高徳たかのりだった。
私本太平記:05 世の辻の帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
「じつは、ここより遠からぬ所に、宮方の児島こじま三郎高徳たかのりなる者がおりまして」
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
さきに、宮方へ合流するため、備前熊山を去った児島三郎高徳たかのりなども、途中、一族郎党のあらましを打たれ、高徳はわずか数騎となって、からくも、新田方の陣へたどり着いていたほどである。
私本太平記:11 筑紫帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)