隆景たかかげ)” の例文
小早川隆景たかかげ吉川きっかわ元長が、秀吉の案内で天守に上った時の感想には、「大天守は八重にて候、言語げんごにおよばず候」
大阪夏之陣 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
使節山岡隆景たかかげが、すぐ大坂から来て、事実を見聞して帰った。また折返して、増田右衛門尉うえもんのじょう長盛が、秀吉の旨をおびて使いに来た。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
数百年を経て兵火のために炎失す。今の神殿は天正年中小早川隆景たかかげ筑前国主たるとき境内東西五十三間南北百七十間に定め、本殿は長九間横七間にして南面せり。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
僕の友人の神原君は作州さくしゅう津山つやまの人である。その祖先は小早川隆景たかかげの家来で、主人と共に朝鮮にも出征して、かの碧蹄館へきていかんの戦いにみん李如松りじょしょうの大軍を撃ち破った武功の家柄であると伝えられている。
馬妖記 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
開城には、小早川隆景たかかげ吉川きっかわ広家、毛利元康以下二万の勢。其他占領した各処には、部将それぞれ守備を厳重にして居たのである。
碧蹄館の戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
智略縦横の人小早川隆景たかかげ沈勇才徳ちんゆうさいとくの人吉川元春きっかわもとはる。——こうふたりは亡父ちち元就もとなりの偉大な半面を公平に分け合って持っていた。
新書太閤記:05 第五分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
毛利の方でも、一寸ちょっと迷ったが例の小早川隆景たかかげ、秀吉の大量を知って、此上戦うの不利を説いたので、秀吉後顧の憂いなくして京師にせ上ることが出来た。
山崎合戦 (新字新仮名) / 菊池寛(著)
「……ふム。これは城主の宗治むねはるから、隆景たかかげと元春へ宛てた返書らしい。あかりを、もそっと手もとへ」
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
なぜならば、小早川隆景たかかげは、筑前の立花や豊後の大友宗麟おおともそうりんなどと交戦中であった。吉川元春もとはるは、鳥取城を中心とする敵勢力の山陰展開にたいしその処置に忙殺されていた。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
伯耆ほうき備中びっちゅう、その余にわたる敵国のうごきを大観し、吉川元春きっかわもとはるの軍、小早川隆景たかかげの軍、毛利輝元もうりてるもとの軍などが、これへ来援してくる場合の大勢をもあらかじめ察するに便であった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
山陽方面の総帥小早川隆景たかかげは、敵の総帥秀吉が、思いのほか早く、中国へ帰陣したので、彼と信長との会見に、何らかの大方針が決まったものと見、それに備えるべく、諸所の味方へ令を飛ばして
新書太閤記:06 第六分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)