うるふ)” の例文
清休は元祿十二年うるふ九月十日に歿した。次に其家を繼いだのが五代西村廓清信士で、問題の女島の夫、所謂落胤東清の表向の父である。
寿阿弥の手紙 (旧字旧仮名) / 森鴎外(著)
斯ういふ思想かんがへを抱いて、やが以前もと来た道の方へ引返して行つた頃は、うるふ六日ばかりの夕月が黄昏たそがれの空に懸つた。尤も、丑松は直に其足で蓮太郎の宿屋へ尋ねて行かうとはしなかつた。
破戒 (新字旧仮名) / 島崎藤村(著)
周の敬王の四十年、うるふ十二月某日蒯聵くわいぐわいは良夫に迎へられて長驅都に入つた。
盈虚 (旧字旧仮名) / 中島敦(著)
七月みそかより、うるふ七月一日の夜にかけての大暴風に、敵十五万の大軍は覆滅して、還り得たるもの、わづか五分の一だと云はれてゐるが、十五万の大軍を石築地いしついぢに依つて、よく防禦した将士の奮戦が
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
碧空のかけらが落ちてゐて うるふ四月
古井戸のある風景 (新字旧仮名) / 金鍾漢(著)
頃しも弘安四年、うるふ七月ふづき朔日ついたち
新頌 (新字旧仮名) / 北原白秋(著)
「聽いて下さいな、親分。私の生んだお君は、間違ひもなく、嫁入りしてから丸九ヶ月以上も經つた兒、その間にうるふが一と月もあつたので、世間では八カ月兒だとか何んとか言ひましたが、お君は少し早産ではあつても、伊勢屋忠右衞門の子に間違ひはありません」
武江年表を検するに、うるふ六月より八月に至るまで雨が多く、七月二十五日の下に「酒船入津絶えて市中酒なし」と書してある。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
此二遊は蘭軒雑記に「享和うるふ正月」と記し、しも三字を塗抹して「二月」と改めてある。享和中閏正月のあつたのは三年である。故にしばらく此に繋ける。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
次いで役人が大阪へも出張して、両方で取り調べた。罪案が定まつて上申せられたのは天保九年うるふ四月八日で、宣告のあつたのは八月二十一日である。
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
阿部家は宝永七年うるふ八月十五日に、正倫の曾祖父備中守正邦まさくにが下野国宇都宮よりうつされて、福山を領した。
伊沢蘭軒 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)
十月二十七日京都を発せさせ給ひ、うるふ十月二日東京なる東伏見宮第に着かせ給ひ、いで有栖川宮第にうつらせ給ふ。能久の名にかへらせたまひ、伏見満宮と称へさせ給ふ。
能久親王年譜 (新字旧仮名) / 森鴎外森林太郎(著)
然るに平山は評定の局を結んだ天保九年うるふ四月八日と、それが発表せられた八月二十一日との中間、六月二十日に自分の預けられてゐた安房勝山の城主酒井大和守忠和ただよりやしき
大塩平八郎 (新字旧仮名) / 森鴎外(著)