長門守ながとのかみ)” の例文
(第三)まもなく内匠頭の親友である戸沢下総守しもうさのかみと小笠原長門守ながとのかみが浅野邸へやってきて、上野介は傲慢不遜ごうまんふそんな男であるから
本所松坂町 (新字新仮名) / 尾崎士郎(著)
飛騨ひだ高山三萬八千石の城主、金森長門守ながとのかみ樣の御用人、五百石取の富崎左仲といふ方が、今から丁度十日前に、お長屋で腹を切つて死んでゐる」
惣門の前には、今所司代の村井長門守ながとのかみ(春長軒)が供の者をひかえて佇んでいた。ちょうど内から出て来た貴人の輿こしに遠慮しているふうだった。
新書太閤記:07 第七分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
身体を斜に風の当りを弱めながら小笠原長門守ながとのかみ様前を突っ切ると、次の一廓が松平修理太夫と和気わけ行蔵の二構え、お長屋門の傍から松が一本往来へ枝を張っている。
長門守ながとのかみと守名を宣り大阪町奉行を勤めていた。ちょうどその頃のことであるが、瀬戸内海の大海賊赤格子九郎右衛門をひっ捕え千日前の刑場で獄門に掛けたことがある。
赤格子九郎右衛門の娘 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
その時になって見ると、長州征伐の命令が下ったばかりでなく、松平大膳太夫まつだいらだいぜんのだゆうならびに長門守ながとのかみは官位をがれ、幕府より与えられた松平姓と将軍家御諱おんいみなの一字をも召し上げられた。
夜明け前:02 第一部下 (新字新仮名) / 島崎藤村(著)
「あ、そうだよ。そこの細川長門守ながとのかみさまのお屋敷向こうの増屋ますやっていうお米屋だよ」
小川町の歩兵屯所も土屋采女正うねめのしょうと稲葉長門守ながとのかみの屋敷の建物はみな取り払われて、ここに新らしい長屋と練兵の広場を作ったのであるが、ある一部には昔の庭の形が幾分か残されている所もあった。
呼出され其方は早追はやおひにて遠州相良さがらへ參り長門守ながとのかみ用人共へ此書状を
大岡政談 (旧字旧仮名) / 作者不詳(著)
長州藩では、藩の世子せいし長門守ながとのかみが、迎えに出た。また、五卿慰労の春帆楼の一夕いっせきには、藩士の桂小五郎かつらこごろうと、伊藤俊輔いとうしゅんすけが、あいさつを述べに、伺候した。
松のや露八 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
巾着切とかたりの仲間——天滿七之助の身内十何人を珠數じゆずつなぎにして、江戸つ子達にやんやと喝采を送られた錢形平次と八五郎は、町奉行村越長門守ながとのかみ樣小梅の寮に招かれ
係りの奉行はその時の月番東町奉行志摩長門守ながとのかみで捕方与力は鈴木利右衛門であった。
赤格子九郎右衛門の娘 (新字新仮名) / 国枝史郎(著)
このすさまじい「駈落かけおとし」のうちに、宮脇又兵衛(後に長門守ながとのかみ)は馬を用いていた。そして宝寺たからでらのうしろの断崖の上に来てしまったのである。馬は当然、硬直してうごかない。
新書太閤記:08 第八分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
八方から手を入れて、やうやく判つたのはたつた今だ。富崎佐太郎の使が金森家用人へ持込んだ金は、確かに小判で三千兩だ。長門守ながとのかみ樣もその話を聞いて、すつかり考へ直したつて言ふぜ。