猿若町さるわかまち)” の例文
あの佐倉宗吾の芝居は三代目瀬川如皐じょこうの作で、嘉永四年、猿若町さるわかまちの中村座の八月興行で、外題げだいは『東山桜荘子ひがしやまさくらそうし』といいました。
半七捕物帳:60 青山の仇討 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
猿若町さるわかまち聖天町しょうでんちょうを経て、遠く吉野町、山谷あたりから来るものばかりだった。まれには「吉原」からもかよって来た。
浅草風土記 (新字新仮名) / 久保田万太郎(著)
六畳敷ほどもある大きな島台をすえつけ、その上に猿若町さるわかまちの役者を翁とうばに扮装させて立たせ、岩木は本物の蓬莱石ほうらいいし
顎十郎捕物帳:20 金鳳釵 (新字新仮名) / 久生十蘭(著)
小瀧こたきと云う芸者は、もと東京浅草猿若町さるわかまちに居りまして、大層お客を取りました芸者で、まだ年は二十一でございますが、悪智あくちのあるもので、情夫いろおとこゆえに借金が出来て
霧陰伊香保湯煙 (新字新仮名) / 三遊亭円朝(著)
吾妻橋あづまばしの手前東橋亭とうけうていとよぶ寄席のかどから花川戸はなかはどの路地に這入はいれば、こゝは芸人や芝居者また遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町さるわかまちの新道の昔もかくやと推量せられる。
路地 (新字旧仮名) / 永井荷風(著)
二番目は桜痴おうち居士の新作で、安政四年四月、猿若町さるわかまちの森田座で「天竺徳兵衛てんじくとくべえ」を演じている最中に、熊本の藩士が見物席から舞台に飛びあがって
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
浅草どぶだな長遠寺ちょうえんじ御影供日おめいくびなので、紀州侯徳川茂承もちつぐの愛妾、お中﨟ちゅうろう大井おおいは、例年どおり御後室ごこうしつの代参をすませると、総黒漆そうくろうるしの乗物をつらねて猿若町さるわかまちの市村座へまわり
吾妻橋あずまばしの手前東橋亭とうきょうていとよぶ寄席よせかどから花川戸はなかわどの路地に這入はいれば、ここは芸人や芝居者しばいものまた遊芸の師匠なぞの多い処から何となく猿若町さるわかまち新道しんみちの昔もかくやと推量せられる。
放火つけびは流行る。将軍家は二月に上洛、六月に帰府、十二月には再び上洛の噂がある。猿若町さるわかまちの三芝居も遠慮の意味で、吉例の顔見世狂言を出さない。
半七捕物帳:67 薄雲の碁盤 (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
この辺から猿若町さるわかまちの芝居見物に行くには、重箱に詰めた食事の用意までして、猪牙船ちょきぶねで堀割から堀割を漕いで行ったとか云われた話をば、いかにも遠い時代の夢物語のように思い返す。
銀座界隈 (新字新仮名) / 永井荷風(著)
ことに国五郎は人気があって、見台ぬけのケレンなどで喝采を博していた。猿若町さるわかまちの市村座のそばに文楽座があったが、行き立たないでほろびてしまった。
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
市村座は元地もとち猿若町さるわかまちから移転して、去年の十一月に新築開場式をおこない、市川左団次、市川権十郎、坂東家橘かきつなどの顔ぶれで、一番目は「賤嶽七本槍しずがたけのしちほんやり
明治劇談 ランプの下にて (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)
「年代はたしかに覚えていませんが、あやつり芝居が猿若町さるわかまちから神田の筋違外すじかいそとの加賀ツ原へ引き移る少し前だと思っていますから、なんでも安政の末年でしたろう」
半七捕物帳:38 人形使い (新字新仮名) / 岡本綺堂(著)