武田信玄たけだしんげん)” の例文
今わたくしの手近てぢかにある系図には、一豊の弟は織田信長おだのぶながに仕えた修理亮しゅりのすけ康豊やすとよと、武田信玄たけだしんげんに仕えた法眼ほうげん日泰にったいとの二人しか載せてない。
渋江抽斎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
越後の上杉家とは、それから間もなく、上野国こうずけのくにの国境で、小競こぜりあいがあり、甲州の武田信玄たけだしんげんは、久しくなりをひそめていたを鳴らして
篝火の女 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
武田信玄たけだしんげん上杉謙信うえすぎけんしんはたがいに覇業はぎょうを争うた、その結果として双方はたがいに研究しあい、武田流の軍学や上杉風の戦法などが日本に生まれた。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
この書は、それ自身の標榜するところによると、武田信玄たけだしんげんの老臣高坂弾正信昌こうさかだんじょうのぶまさが、勝頼かつより長篠ながしの敗戦のあとで、若い主人のために書き綴ったということになっている。
川中島に陣をとった武田信玄たけだしんげんのようだ。まつ毛一本だって動かさない。なぜだろうか?
昭和遊撃隊 (新字新仮名) / 平田晋策(著)
ただ富貴という点から論ずるならば、武田信玄たけだしんげんのごときは智謀にすぐれ、ねらうところ百発百中でありながら、しかも一生涯を通じてその威勢をわずかに甲・信・越の三国にふるうだけでありました。
天文てんもん十五年のころ、武田信玄たけだしんげんの軍勢が、上杉憲政うえすぎのりまさを攻めて上野乱入こうずけらんにゅうにかかったとき、碓氷峠うすいとうげの陣中でとらえたのがこのわしであった。
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
先に武田信玄たけだしんげんが死んでから七年目に、上杉謙信うえすぎけんしんが死んだ。
佐橋甚五郎 (新字新仮名) / 森鴎外(著)
武田信玄たけだしんげんというものがある。
ああ玉杯に花うけて (新字新仮名) / 佐藤紅緑(著)
機山大居士きざんだいこじ武田信玄たけだしんげんまご天性てんせいそなわる威容いようには、おのずから人をうつものがあるか、こういうと呂宋兵衛にしたがう山犬武士ども、おもわず耳のまくをつンかれたように、たじたじとして
神州天馬侠 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
これは、武田信玄たけだしんげんがよく用いた甲州流兵学の特徴であったが、長篠ながしの合戦かっせんののち、徳川家には多くの武田の遺臣が身をよせていたので、家康の戦術には、以来、いちじるしく信玄風が加味されていた。
新書太閤記:10 第十分冊 (新字新仮名) / 吉川英治(著)