崇徳すとく)” の例文
そして少し下つた處に崇徳すとく上皇を祭つたお宮があつた。あたりは廣い松林で、疎ならず密ならず、見るからに明るい氣持がした。
樹木とその葉:03 島三題 (旧字旧仮名) / 若山牧水(著)
崇徳すとく天皇も、近衛幼帝も、みなこれ、かしこ傀儡かいらいたるにすぎません。神にもあらず、人間にもあらず、ただしきかげの御生命であったに過ぎない。
随筆 新平家 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
御位を堀河ほりかは天皇に譲り給うた後、院庁ゐんのちやうを開いて、おん自から、万機を総攬し給ひ、次の鳥羽とば天皇、崇徳すとく天皇まで御三代の間は、白河上皇の院政が続いたのである。
二千六百年史抄 (新字旧仮名) / 菊池寛(著)
出家は二十三歳のとき、崇徳すとく天皇の保延ほうえん六年で、真言宗しんごんしゅうである。出家後しばらく京都近くに居り、それから伊勢いせへ行ってしばらく住んだらしく、それから東海道を奥州おうしゅうまで旅した。
中世の文学伝統 (新字新仮名) / 風巻景次郎(著)
『七大寺巡礼記』には、この八部衆はもと額田部ぬかたべ寺の像であって西金堂に移した後毎年寺中に闕乱けつらんのことがあるため長承(崇徳すとく)年中に本寺へ帰したはずだが、今ここにあるのは不思議だとある。
古寺巡礼 (新字新仮名) / 和辻哲郎(著)
崇徳すとく、おん名は顕仁あきひと、鳥羽天皇の第一皇子として生まれ、おん母は、大納言公実きみざねのむすめ、藤原ふじわら璋子と申される。
保元の乱に讃岐さぬきの配所で憤死された崇徳すとく上皇の怨念や因果などが、何かにつけ想起されていたものらしく
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
それを、日本の史に照らすと、わがちょうでは、鳥羽、崇徳すとく天皇の下に、不遇な武者どもを代表していた平忠盛ただもりや清盛などが、やがての平家時代を招きおこそうとしていた時代のあしたにあたっている。
新・水滸伝 (新字新仮名) / 吉川英治(著)
崇徳すとくと申しあげ、まだ御十九の、青春の天皇であった。
諸事、崇徳すとくの例になら
私本太平記:13 黒白帖 (新字新仮名) / 吉川英治(著)