嗜慾しよく)” の例文
野々宮さんも広田先生と同じく世外の趣はあるが、世外の功名心の為めに、流俗の嗜慾しよくを遠ざけてゐるかの様に思はれる。
三四郎 (新字旧仮名) / 夏目漱石(著)
偏屈人に対しては妙に心理洞察のカンのある彼は、食道楽であるこの中老紳士の舌を、その方面からそらんじてしまって、嗜慾しよくをピアノの鍵板けんばんのように操った。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
彼が新知識、特にオランダ渡りの新知識に対して強烈な嗜慾しよくをもっていたことは到る処に明白に指摘されるのであるが、そういう知識をどこから得たか自分は分からない。
西鶴と科学 (新字新仮名) / 寺田寅彦(著)
それを自分の小遣こづかいとして、任意に自分の嗜慾しよくを満足するという彼女の条件はただちに成立した。その代り彼女は津田といっしょに温泉へ行かない事になった。
明暗 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
いまから考へると多分の嫉妬しっともあつたやうに思ふ。さういふけわしい石火いしびり合つて、そこの裂目さけめからまれる案外甘い情感の滴り——その嗜慾しよくに雪子は魅惑を感じた。
過去世 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)
それは努めてしたのではないが、人の嗜慾しよくに対し間諜犬かんちょうけんのような嗅覚きゅうかくを持つ彼の本能は自ずと働いていた。夫人の食品の好みは専門的に見て、素人なのだか玄人なのだか判らなかった。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
なぜというと、一つは人を支配するための生活で、一つは自分の嗜慾しよくを満足させるための生活なのだから、意味が全く違う。意味が違えば様子も違うのがもっともだといったような話であります。
中味と形式 (新字新仮名) / 夏目漱石(著)
それにくらべると中背ではあるが異常に強壮な身体を持っている鼈四郎はあらゆる官能慾をむさぼるに堪えた。ある種の嗜慾しよく以外は、貪りあとう飽和点を味い締められるが故にかえって恬淡てんたんになれた。
食魔 (新字新仮名) / 岡本かの子(著)
何でも事物の精髄をあじわふことには、彼はどんらんな嗜慾しよくを持つて居た。
上田秋成の晩年 (新字旧仮名) / 岡本かの子(著)